top of page

今戸 - 「みやこ鳥」 佐藤垢石 1924(大正13)年5月6日

 その頃、堀が隅田川へ注ぐ今戸の前にも、数多いみやこ鳥が群れていた。今戸にはいくつもの寮が邸をならべていて、みやこ鳥の浮かぶ雪景色に酒を酌んだのであった。今戸の寮は幕末から明治初期までが一番全盛を極めたのであって、この頃の物持ちや政治家が熱海や箱根へ別荘を設けるように、当時銀座の役人や御用商人、芸人、大名、囲われ者などがここへ別荘を作った。これを寮と唱えて、建築から庭園、塀の構えまで豪奢、風流のありたけを尽くしていた。それが、大正十二年の震災までは俤を残していたのである。


 数多い寮のうち陸軍の御用商人三谷三九郎の邸が、明治初年に人から羨望の的となった。山県陸軍卿が御用商人の三谷のこの寮へ行って、堀の小さんと泊まりがけで逢曳したのも当時人の噂に上った。最近まで、報知新聞に伊沢の婆さんという、矢野龍渓、小栗貞夫、三木善八の三代にわたってその俥をひいた爺さんの女房が飼い殺しになっていて、山県公の遊び振りや三谷の贅沢振り、今戸の寮に住む人々の風流振りを話したものである。伊沢の婆さんというのは日本橋の小網町の魚仙の娘で、明治五年に十五の年から二十二、三まで、三九郎の妹婿で三谷家総支配人をしていた三谷斧三郎の今戸の寮に奉公していた。





Comentários


Os comentários foram desativados.
bottom of page