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浅草を語る、ことば。

浅草を語る、ことば。

隅田川・大川 - 「狂言の神」 太宰治 1936(昭和11)年10月

あああ。今夜はじつに愉快であった。大川へはいろうか。線路へ飛び込もうか。薬品を用いようか。新内と商人と、ふたりの生活人に自信を与えた善根によっても、地獄に堕ちるうれいはない。しずかな往生ができそうである。けれども、わが身が円タク拾って荻窪の自宅へ易々とかえれるような状態に在るう

「浅草とは?」・浅草の食 - 「狂言の神」 太宰治 1936(昭和11)年10月

浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。

「浅草とは?」・絵はがき - 「もの思う葦 絵はがき」 太宰治 1936(昭和11)年1月1日

私、深山のお花畑、初雪の富士の霊峰。白砂に這い、ひろがれる千本松原、または紅葉に見えかくれする清姫滝、そのような絵はがきよりも浅草仲店の絵はがきを好むのだ。人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命

装い・服装 - 「砂がき 夏の街をゆく心」 竹久夢二 1940(昭和15)年10月15日

このあたりを歩く男も女も、千種萬樣で、麻の葉の赤いメリンスの單衣に唐人髷を頭にのつけて、鈴のついた木履をはいて眉を落した六つばかりの女の子の手を引いてゆく耳かくしをゆつた姉らしい女は女給ででもあらうか、素足の足の裏が黒い。  田村屋かちくせんあたりの小紋風な浴衣をきた好い女房

「浅草とは?」・江崎写真館・仲見世 - 「砂がき 夏の街をゆく心」 竹久夢二 1940(昭和15)年10月15日

淺草も變つた。仲店の、あれも虎の門や上野の博物館や銀座や十二階とおなじ時分に出來たと思はれる赤煉瓦の長屋の文明開化趣味も、もうなくなつた。いま新しく建築中だがこんどはどんなものになるだらう。安い西洋菓子のやうな文化建築をデコデコと建て並べなければ好いと案じられる。仁王門のわきの

活動写真・連鎖劇 - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

ちやうどこの頃、説明者のつとめてゐる映画常設館で争議が起つてゐた。それはトーキーになつたため、説明者、伴奏音楽師なぞの馘首の問題、解雇手当等の問題から、技師、表方、テケツをも含めた争議にまでなつて了つたのである。——そして、このよく肥えた説明者は幹部級なので、勢ひ争議団でも指導

「浅草とは?」・浅草の食 - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧しい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たち

「浅草とは?」 - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

皆はこの堅い男を変人だと呼んで特別扱ひをしてゐて、それは彼を益々孤独にし、人づきあひを下手にさせて行くのに役に立つたのであるが——彼とても、気のあつた相手があれば大いに談ずるだけの熱情は持つてゐる。かつて一人の板場が病気になつたので、助に来た若い男があつたが、お互ひに久保田万太

「浅草とは?」 - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

安酒場——お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極めた——女たちの客を呼び込む声、泥酔した客たちの議論、演説、浪花節、からかひと嬌声、酒のこぼれ流れてゐる長い木の食卓、奥の料理場から、何々上り!と知らせる声なぞの雑然とした——安酒場 浅草文庫 「日本三文オペラ」

「浅草とは?」 - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

婆さんも彼を得たことを悦んでゐる。そこで、つらいことではあらうが、爺さんがあんなにも好きな義太夫の寄席へも、ひよつとして息子の家から探しに来ないものでもないと、断然行くことを禁じて了つた。そして、日本物の活動写真か、布ぎれ一枚だけが舞台装置である安歌舞伎を見ることを彼にすすめる

吉原遊郭(新吉原) - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

こんな不潔で不便でも、貸賃が安く、交通に都合がよいので、大抵の部屋はふさがつてゐるやうだ。六畳が十円で、ガス、水道、電燈料が一円五十銭——合計十一円五十銭の前家賃になつてゐる。多くは浅草公園に職を持つてゐるのであるが、彼らの借室人としての性質はどんなものであるか。  そのうち

浅草六区・見世物 - 「回想録」 高村光太郎

美術学校を出る頃、私の拵えたものは変に観念的なもので、坊さんが普段の姿で月を見ているところとか、浮彫で浴衣が釘に掛ってブラ下っていてそれが一種の妖気を帯びているという鏡花の小説みたいなものを拵えたつもりで喜んでいた。それから浅草の玉乗などを拵えた。玉乗の女の子が結えられて泣いて

長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「回想録」 高村光太郎

歳末になると、父は車を引張ってお酉様の熊手を売りにゆく。いろんな張子を一年かかって拵え、家の中を胡粉の臭いでいっぱいにし、最後に金箔をつけて荷車に積んで売りに行ったものだ。そんなことが二三年続いたと思うが、つまり仏師の仕事だけでは食って行けなかったのだ。だがそうしている間に、彫

見世物 - 「回想録」 高村光太郎

その佐竹原に、祖父の元の仲間が儲仕事に奈良の大仏の模品を拵えて、それを見世物にしたことがある。その仕事の設計が余り拙いので、父は仏師だからつい、心は丸太で、こういう風に板をとりつければよいというようなことを口出ししたのがきっかけとなって、その仕事に引きずりこまれて監督になったら

装い・服装 - 「回想録」 高村光太郎

祖父は丁髷をつけて、夏など褌一つで歩いていたのを覚えている。その頃裸体禁止令が出て、お巡りさんが「御隠居さん、もう裸では歩けなくなったのだよ。」と言って喧しい。そしたら着物を着てやろうというので蚊帳で着物を拵え素透しでよく見えるのに平気で交番の前を歩いていた。 浅草文庫

見世物 - 「回想録」 高村光太郎

祖父の弟で甲府に流れて行って親分になった人があるが、これは非常に力持ちの武芸の出来た人で、その弟がついているので祖父の勢力が大変強かった。喧嘩というと弟が出て行った。江戸中の顔役が集まって裁きをつけたりしたことがあったと言う。だから私は子供の時分、見世物は何処へ行っても無代だっ

露天商・香具師 - 「回想録」 高村光太郎

祖父は小さい時からその父親の面倒をみて、お湯へでも何処へでも背負って行ったと言う。商売の方は魚屋のようなものだったらしいが、すっかり零落し、清島町の裏町に住んで、大道でいろいろな物を売る商売をして病気の父親を養った。紙を細かく折り畳んだ細工でさまざまな形に変化する「文福茶釜」と

パンの会 - 「ヒウザン会とパンの会」 高村光太郎 1936(昭和11)年

雷門の「よか楼」にお梅さんという女給がいた。それ程の美人というんじゃないのだが、一種の魅力があった。ここにも随分通いつめ、一日五回もいったんだから、今考えるとわれながら熱心だったと思う。「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがいて、新聞に写真入

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