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浅草の食・浅草六区 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

 そうだ。食い物と言えば、私のこの回のはじめに、食堂のメシのことを書いた。――私の行く浅草のメシ屋はいろいろとあって、一定してないのだが、つまり急ぐときは、私のアパートから近い合羽橋通りのメシ屋、散歩がてらの時は公園を抜けて馬道に出て、そのあたりのメシ屋へ行く。

 その馬道と国際通りの間、広小路通りと言問通りの間の、普通浅草と呼ばれる一区画の中にある食い物屋は、これはいわば外から浅草へ遊びにくる人たちのための食い物屋で、浅草のなかで働いている人たちのための、そうとも限定できないが、とにかくそんな内輪の感じの安いメシ屋はその区画の外郭にある。馬道、国際通り、広小路、言問通り、そこにいかにもメシ屋らしい安直なメシ屋があるのだ。


 馬道の「大黒屋」で、「傘売り」と向い合って、――傘売りというのは、雨が降ると六区に現われて番傘を売る浅草特有の商売だが、その男のひとりと、その「大黒屋」で時々顔を合わせるうちにいつかなじみになって、向うから話しかけられ、傘の卸しをやっている婆さんの話や、最近その卸値をあげやがって、ふてえ婆だというような話を聞いて、私は十三銭のメシを食い、――(味噌汁三銭、野菜皿五銭、丼メシをシロと言って五銭。合計十三銭。ちなみに、もう少しご飯が食いたいという時は、小さな茶碗のメシがあって、これをと言って三銭。)――傘売りがそこで焼酎を飲みながら待機しているだけに、どうやらあやしい空模様の、外に出て、吾妻橋の方にぶらぶら行くと、ぽんたんが松屋の東武電車の出口からあたふたと出てくるのに、ばったり会った。





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