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「浅草とは?」・浅草の食 - 「日本三文オペラ」 武田麟太郎 1932(昭和7)年6月

 その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧しい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たちの咽喉はつぶれて、それが店内に濛々としてゐる煙草の煙のために一層荒れて了つてゐる。だから、冗談を云ひかける客には、思ひもつかぬ嗄れて太くなつた声で応酬して驚かすのである。——そして、終日銚子を指でつかんだり、料理皿を掌にのせて、日和下駄で湿つぽい店の土間を絶間なく、お互ひにぶつかりさうになりながら、忙しく動いてゐる。食事はかはるがはる裏の炊事場に出てする。たすきもかけて立つたまま、棚に菜皿をのつけて、冷い飯を掻き込むのである。大急ぎで済ますと、彼女たちはきまつて小楊枝で歯をせせり、それを投げ棄てて、便所にはひつて用を足す。それから、再び店へ戻つて客の註文を聞き、高い声で、料理場に叫びかけるのである。——





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