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浅草寺歳の市 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

 喜兵衛は狂歌の才をも商売に利用するに抜目がなかった。毎年の浅草の年の市(暮の十七、八の両日)には暮の餅搗に使用する団扇を軽焼の景物として出したが、この団扇に「景物にふくの団扇を奉る、おまめで年の市のおみやげ」という自作の狂歌を摺込んだ。この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島屋の団扇で餅を煽ぐと運が向いて来るといい伝えた。昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を搗かしたもんで、就中、下町の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の市には景物目的のお客が繁昌し、魚河岸あたりの若い衆は五本も六本も団扇を貰って行ったそうである。




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浅草寺歳の市 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

深川八幡に始まって、浅草観音、神田明神、芝の愛宕、平河天神などを歳の市の数え場所とし、他は西両国の広小路、銀座通り、四谷伝馬町、赤坂一ッ木など、最寄りもよりになお幾つもある。  就中観音の市では羽子板の本相場がきまり、明神の市では門松の値が一定する。その他愛宕の市で福寿草の相

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