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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」

内田魯庵 1916(大正5)年3月

 震火で灰となった記念物の中に史蹟というのは仰山だが、焼けてしまって惜《おし》まれる小さな遺跡や建物がある。淡島寒月《あわしまかんげつ》の向島《むこうじま》の旧庵の如きその一つである。今ではその跡にバラック住いをして旧廬《きゅうろ》の再興を志ざしているが、再興されても先代の椿岳《ちんがく》の手沢《しゅたく》の存する梵雲庵《ぼんうんあん》が復活するのではない。


 向島の言問《こととい》の手前を堤下《どてした》に下《お》りて、牛《うし》の御前《ごぜん》の鳥居前を小半丁《こはんちょう》も行くと左手に少し引込んで黄蘗《おうばく》の禅寺がある。牛島の弘福寺といえば鉄牛《てつぎゅう》禅師の開基であって、白金《しろかね》の瑞聖寺と聯《なら》んで江戸に二つしかない黄蘗風の仏殿として江戸時代から著名であった。この向島名物の一つに数えられた大伽藍《だいがらん》が松雲和尚の刻んだ捻華微笑《ねんげみしょう》の本尊や鉄牛血書の経巻やその他の寺宝と共に尽《ことごと》く灰となってしまったが、この門前の椿岳旧棲《きゅうせい》の梵雲庵もまた劫火《ごうか》に亡び玄関の正面の梵字の円い額も左右の柱の「能発一念喜愛心」及び「不断煩悩得涅槃《ねはん》」の両聯《れん》も、訪客に異様な眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》らした小さな板碑《いたび》や五輪の塔が苔蒸《こけむ》してる小さな笹藪《ささやぶ》も、小庭を前にした椿岳旧棲の四畳半の画房も皆焦土となってしまった。この画房は椿岳の亡《な》い後は寒月が禅を談じ俳諧に遊び泥画《どろえ》を描き人形を捻《ひね》る工房となっていた。椿岳の伝統を破った飄逸《ひょういつ》な画を鑑賞するものは先ずこの旧棲を訪うて、画房や前栽《せんざい》に漾《ただよ》う一種異様な蕭散《しょうさん》の気分に浸らなければその画を身読する事は出来ないが、今ではバラックの仮住居《かりずまい》で、故人を偲《しの》ぶ旧観の片影をだも認められない。


 寒月の名は西鶴《さいかく》の発見者及び元禄文学の復興者として夙《つと》に知られていたが、近時は画名が段々高くなって、新富町《しんとみちょう》の焼けた竹葉《ちくよう》の本店には襖《ふすま》から袋戸《ふくろど》や扁額《へんがく》までも寒月ずくめの寒月の間《ま》というのが出来た位である。寒月の放胆無礙《むげ》な画風は先人椿岳の衣鉢《いはつ》を承《う》けたので、寒月の画を鑑賞するものは更に椿岳に遡《さかのぼ》るべきである。


 椿岳の画の豪放洒脱《しゃだつ》にして伝統の画法を無視した偶像破壊は明治の初期の沈滞萎靡《いび》した画界の珍とする処だが、更にこの畸才《きさい》を産んだ時代に遡って椿岳の一家及び環境を考うるのは明治の文化史上頗る興味がある。


 加うるに椿岳の生涯は江戸の末李より明治の初期に渡って新旧文化の渦動《かどう》に触れている故、その一代記は最もアイロニカルな時代の文化史的及び社会的側面を語っておる。それ故に椿岳の生涯は普通の画人伝や畸人伝よりはヨリ以上の興味に富んで、過渡期の畸形的文化の特徴が椿岳に由《よっ》て極端に人格化された如き感がある。言換《いいか》えれば椿岳は実にこの不思議な時代を象徴する不思議なハイブリッドの一人であって、その一生はあたかも江戸末李より明治の初めに到《いた》る文明急転の絵巻を展開する如き興味に充《み》たされておる。椿岳小伝はまた明治の文化史の最も興味の深い一断片である。

(大正十三年十月補記)

 椿岳の名は十年前に日本橋の画博堂で小さな展覧会が開かれるまでは今の新らしい人たちには余り知られていなかった。展覧会が開かれても、案内を受けて参観した人は極めて小部分に限られて、シカモ多くは椿岳を能《よ》く知ってる人たちであったから、今だにその画をも見ずその名をすらも知らないものが決して少なくないだろう。先年或る新聞に、和田三造《わださんぞう》が椿岳の画を見て、日本にもこんな豪《えら》い名人がいるかといって感嘆したという噂が載っていた。この噂の虚実は別として、この新聞を見た若い美術家の中には椿岳という画家はどんな豪い芸術家であったろうと好奇心を焔《も》やしたものもまた決して少なくないだろう。椿岳は芳崖《ほうがい》や雅邦《がほう》と争うほどな巨腕ではなかったが、世間を茶にして描《か》き擲《なぐ》った大津絵《おおつえ》風の得意の泥画は「俺《おれ》の画は死ねば値が出る」と生前豪語していた通りに十四、五年来著るしく随喜者を増し、書捨ての断片をさえ高価を懸けて争うようにもてはやされて来た。


 椿岳の画は今の展覧会の絵具《えのぐ》の分量を競争するようにゴテゴテ盛上げた画とは本質的に大《おおい》に違っておる。大抵は悪紙に描きなぐった泥画であるゆえ、田舎のお大尽や成金やお大名の座敷の床の間を飾るには不向きであるが、悪紙悪墨の中に燦《きら》めく奔放無礙の稀有《けう》の健腕が金屏風《きんびょうぶ》や錦襴表装のピカピカ光った画を睥睨《へいげい》威圧するは、丁度墨染《すみぞめ》の麻の衣の禅匠が役者のような緋《ひ》の衣の坊さんを大喝《だいかつ》して三十棒を啗《くら》わすようなものである。


 この椿岳は如何《いか》なる人物であった乎《か》。椿岳を語る前に先ずこの不思議な人物を出した淡島氏の家系に遡って一家の来歴を語るは、江戸の文化の断片として最も興味に富んでおる。

一 淡島氏の祖——馬喰町の軽焼屋

 椿岳及び寒月が淡島と名乗るは維新の新政に方《あた》って町人もまた苗字《みょうじ》を戸籍に登録した時、屋号の淡島屋が世間に通りがイイというので淡島と改称したので、本姓は服部《はっとり》であった。かつ椿岳は維新の時、事実上淡島屋から別戸して小林城三と名乗っていたから、本当は淡島椿岳でなくて小林椿岳であるはずだが、世間は前身の淡島屋を能《よ》く知ってるので淡島椿岳と呼び、椿岳自身もまた淡島と名乗っていた。が、実は小林であったか、淡島であったか、ハッキリしない処が椿岳らしくてイイ。この離籍一条は後に譲るとして先ず淡島屋の祖先について語ろう。


 淡島氏の祖の服部喜兵衛は今の寒月から四代前で、本《も》とは上総《かずさ》の長生《ちょうせい》郡の三《さん》ヶ谷《や》(今の鶴枝村)の農家の子であった。次男に生れて新家《しんや》を立てたが、若い中《うち》に妻に死なれたので幼ない児供《こども》を残して国を飛出した。性来頗《すこぶ》る器用人で、影画《かげえ》の紙人形を切るのを売物として、鋏《はさみ》一挺《いっちょう》で日本中を廻国した変り者だった。挙句《あげく》が江戸の馬喰町《ばくろちょう》に落付いて旅籠屋《はたごや》の「ゲダイ」となった。この「ゲダイ」というは馬喰町の郡代屋敷へ訴訟に上る地方人の告訴状の代書もすれば相談対手《あいて》にもなる、走り使いもすれば下駄も洗う、逗留客の屋外囲《そとまわり》の用事は何でも引受ける重宝人《ちょうほうにん》であった。その頃訴訟のため度々《たびたび》上府した幸手《さって》の大百姓があって、或年財布を忘れて帰国したのを喜兵衛は大切に保管して、翌年再び上府した時、財布の縞柄《しまがら》から金の員数まで一々細かに尋ねた後に返した。これが縁となって、正直と才気と綿密を見込まれて一層親しくしたが、或時、国の親類筋に亭主に死なれて困ってる家があるが入夫となって面倒を見てもらえまいかと頼まれた。喜兵衛は納得して幸手へ行き、若後家《わかごけ》の入夫となって先夫の子を守育て、傾き掛った身代を首尾よく盛返《もりかえ》した。その家は今でも連綿として栄え、初期の議会に埼玉から多額納税者として貴族院議員に撰出された野口氏で、喜兵衛の位牌《いはい》は今でもこの野口家に祀《まつ》られている。然《しか》るに喜兵衛が野口家の後見となって身分が定《きま》ってから、故郷の三ヶ谷に残した子の十一歳となったを幸手に引取ったところが、継《まま》の母との折合《おりあい》が面白くなくて間もなく江戸へ逃出し、親の縁を手頼《たより》に馬喰町の其地此地《そちこち》を放浪《うろつ》いて働いていた。その中に同じ故郷人《くにもの》が小さな軽焼屋《かるやきや》の店を出していたのを譲り受け、親の名を継いで二代目服部喜兵衛と名乗って軽焼屋を初めた。その時が十六歳であった。屋号を淡島屋といったのは喜兵衛が附けたのか、あるいは以前からの屋号であったか判然しない。商牌及び袋には浅草御門内馬喰町四丁目淡島伊賀掾菅原秀慶謹製とあった。これが名物淡島軽焼屋のそもそもであった。

二 江戸名物軽焼——軽焼と疱瘡痲疹

 軽焼という名は今では殆んど忘られている。軽焼の後身の風船霰《ふうせんあられ》でさえこの頃は忘られてるので、場末の駄菓子屋にだって滅多に軽焼を見掛けない。が、昔は江戸の名物の一つとして頗る賞翫《しょうがん》されたものだ。


 軽焼は本《も》と南蛮渡りらしい。通称丸山《まるやま》軽焼と呼んでるのは初めは長崎の丸山の名物であったのが後に京都の丸山に転じたので、軽焼もまた他の文明と同じく長崎から次第に東漸したらしい。尤も長崎から上方《かみがた》に来たのはかなり古い時代で、西鶴の作にも軽焼の名が見えるから天和《てんな》貞享《じょうきょう》頃には最う上方人《じん》に賞翫されていたものと見える。江戸に渡ったのはいつ頃か知らぬが、享保《きょうほう》板の『続江戸砂子《すなご》』に軽焼屋として浅草誓願寺前茗荷屋《みょうがや》九兵衛の名が見える。みょうが屋の商牌は今でも残っていて好事家《こうずか》間に珍重されてるから、享保頃には相応に流行《はや》っていたものであろう。二代目喜兵衛が譲り受けた軽焼屋はいつごろからの店であったか、これも解らぬが、その頃は最早軽焼屋の店は其処《そこ》にも此処《ここ》にもあってさして珍らしくなかったようだ。


 が、長崎渡りの珍菓として賞《め》でられた軽焼があまねく世間に広がったは疱瘡《ほうそう》痲疹《はしか》の流行が原因していた。江戸時代には一と口に痲疹は命《いのち》定《さだ》め、疱瘡は容貌《きりょう》定めといったくらいにこの二疫を小児の健康の関門として恐れていた。尤も今でも防疫に警戒しているが、衛生の届かない昔は殆んど一年中間断なしに流行していた。就中《なかんずく》疱瘡は津々浦々まで種痘が行われる今日では到底想像しかねるほど猛列に流行し、大名《だいみょう》高家《こうけ》は魯《おろ》か将軍家の大奥までをも犯した。然るにこの病気はいずれも食戒が厳しく、間食は絶対に禁じられたが、今ならカルケットやウェーファーに比すべき軽焼だけが無害として許された。殊に軽焼という名が病を軽く済ますという縁喜《えんぎ》から喜ばれて、何時《いつ》からとなく疱瘡痲疹の病人の間食や見舞物は軽焼に限られるようになった。随《したが》ってこの病気が流行《はや》れば流行るほど、恐れられれば恐れられるほど軽焼は益々繁昌《はんじょう》した。軽焼の売れ行は疱瘡痲疹の流行と終始していた。

三 二代目喜兵衛の商才

 二代目喜兵衛は頗る商才があった。軽焼が疱瘡痲疹の病人向きとして珍重されるので、疱瘡痲疹の呪《まじな》いとなってる張子《はりこ》の赤い木兎《ずく》や赤い達磨《だるま》を一緒に売出した。店頭には四尺ばかりの大きな赤達磨を飾りつけて目標《めじるし》とした。


 その頃は医術も衛生思想も幼稚であったから、疱瘡や痲疹は人力の及び難ない疫神の仕業《しわざ》として、神仏に頼むより外に手当の施こしようがないように恐れていた。それ故に医薬よりは迷信を頼《たよ》ったので、赤い木兎と赤い達磨と軽焼とは唯一無二の神剤であった。

 

 疱瘡の色彩療法は医学上の根拠があるそうであるが、いつ頃からの風俗か知らぬが蒲団《ふとん》から何から何までが赤いずくめで、枕許《まくらもと》には赤い木兎、赤い達磨を初め赤い翫具《おもちゃ》を列べ、疱瘡ッ子の読物《よみもの》として紅摺《べにずり》の絵本までが出板《しゅっぱん》された。軽焼の袋もこれに因《ちな》んで木兎や達磨の紅摺であったが、喜兵衛は更に袋の新らしい工風《くふう》をした。その頃は何に由《よ》らず彩色人の摺物は絵双紙屋組合に加入しなければ作れなかったもので、喜兵衛はこれがために組合へ加入して、世間の軽焼の袋が紅一遍摺《べにいっぺんずり》であるに反して、板下《はんした》に念を入れた数遍摺の美くしい錦絵のような袋を作った。疱瘡痲疹の患者は大抵児供だから、この袋が忽《たちま》ち大評判となって一層繁昌した。(椿岳の代となって自から下画《したえ》を描いた事があるそうだ。軽焼屋の袋は一時好事家間に珍がられて俄《にわか》に市価を生じたが、就中《なかんずく》淡島屋のは最も珍重されて菓子袋としては馬鹿げた高価を呼んだ。今では一時ほどではないが、やはり相当の価を持ってるそうだ。)

 喜兵衛の商才は淡島屋の名を広めるに少しも油断がなかった。その頃は神仏参詣《さんけい》が唯一の遊山《ゆさん》であって、流行の神仏は参詣人が群集したもんだ。今と違って遊山半分でもマジメな信心気も相応にあったから、必ず先ず御手洗《みたらし》で手を清めてから参詣するのが作法であった。随って手洗い所《しょ》が一番群集するので、喜兵衛は思附いて浅草の観音を初め深川《ふかがわ》の不動や神田《かんだ》の明神や柳島の妙見や、その頃流行《はや》った諸方の神仏の手洗い所へ矢車《やぐるま》の家紋と馬喰町軽焼淡島屋の名を染め抜いた手拭《てぬぐい》を納めた。納め手拭はいつ頃から初まったか知らぬが、少くも喜兵衛は最も早く率先して盛んにこれを広告に応用した最初の一人であった。


 さらぬだに淡島屋の名は美くしい錦絵のような袋で広まっていたから、淡島屋の軽焼は江戸一だという評判が益々高くなって、大名高家の奥向きから近郷《きんごう》近在のものまで語り伝えてわざわざ馬喰町まで買いに来た。淡島屋のでなければ軽焼は風味も良くないし、疱瘡痲疹の呪《まじな》いにもならないように誰いうとなく言い囃《はや》したので、疱瘡痲疹の流行時には店前《みせさき》が市をなし、一々番号札を渡して札順《ふだじゅん》で売ったもんだ。自然遅れて来たものは札が請取れないから、前日に札を取って置いて翌日に買いに来るというほど繁昌した。丁度大学病院の外来患者の診察札を争うような騒ぎであったそうだ。


 淡島屋の軽焼の袋の裏には次の報条《ひきふだ》が摺込んであった。余り名文ではないが、淡島軽焼の売れた所以《ゆえん》がほぼ解るから、当時の広告文の見本かたがた全文を掲げる。



 私店けし入《いり》軽焼の義は世上一流被為有《あらせられ》御座候通《とおり》疱瘡はしか諸病症いみもの決して無御座《ござなく》候に付享和三亥年《いどし》はしか流行の節は御用込合《こみあい》順番札にて差上候儀は全く無類和かに製し上候故御先々様にてかるかるやき[#「かるかるやき」に傍点]または水の泡の如く口中にて消候ゆゑあはかるやきかつ私家名淡島焼などと広く御風聴被成下《なしくだされ》店繁昌仕《つかまつり》ありがたき仕合《しあわせ》に奉存《ぞんじたてまつり》製法入念差上来候間年増し御疱瘡流行の折ふし御軽々々御仕上被遊候御言葉祝ひの[#「御軽々々御仕上被遊候御言葉祝ひの」に白丸傍点]かるかるやき[#「かるかるやき」に丸傍点]水の泡の如く[#「水の泡の如く」に白丸傍点]御いものあとさへ取候[#「御いものあとさへ取候」に丸傍点]御祝儀御進物には[#「御祝儀御進物には」に白丸傍点]けしくらゐほどのいも[#「けしくらゐほどのいも」に丸傍点]あとも残り不申候やうにぞんじけしをのぞき差上候[#「あとも残り不申候やうにぞんじけしをのぞき差上候」に白丸傍点]処文政七申年《さるどし》はしか流行このかた御用重なる御重詰《おじゅうづめ》御折詰もふんだんに達磨の絵袋売切らし私念願かな町のお稲荷《いなり》様の御利生《ごりしょう》にて御得意旦那のお子さまがた疱瘡はしかの軽々焼と御評判よろしこの度再板達磨の絵袋入あひかはらず御風味被成下《なしくだされ》候様奉希《ねがいたてまつり》候以上


 以上の文句の通りに軽々と疱瘡痲疹の大厄を済まして芥子《けし》ほどの痘痕《いも》さえ残らぬようという縁喜が軽焼の売れた理由で、淡島屋の屋号のあわのように消えるというもまた淡島屋が殊に繁昌した所以であろう。

 

 この文句に由ると順番札で売ったのは享和三年が初めらしいが、その後も疱瘡痲疹大流行の時は何度もこの繁昌を繰返し、喜兵衛の商略は見事に当って淡島屋はメキメキ肥り出した。

 

 初代の喜兵衛も晩年には度々江戸に上って、淡島屋の帳場に座って天禀《てんぴん》の世辞愛嬌を振播《ふりま》いて商売を助けたそうだ。初代もなかなか苦労人でかつ人徳があったが、淡島屋の身代の礎《いしずえ》を作ったのは全く二代目喜兵衛の力であった。

 

 

四 狂歌師岡鹿楼笑名

 前記の報条《ひきふだ》は多分喜兵衛自作の案文であろう。余り名文ではないが、喜兵衛は商人としては文雅の嗜《たしな》みがあったので、六樹園の門に入って岡鹿楼笑名《おかしかろうわらいな》と号した。狂歌師としては無論第三流以下であって、笑名の名は狂歌の専門研究家にさえ余り知られていないが、その名は『狂歌鐫《せん》』に残ってるそうだ。


 喜兵衛は狂歌の才をも商売に利用するに抜目《ぬけめ》がなかった。毎年の浅草の年の市(暮の十七、八の両日)には暮の餅搗《もちつき》に使用する団扇《うちわ》を軽焼の景物として出したが、この団扇に「景物にふくの団扇を奉る、おまめで年の市のおみやげ」という自作の狂歌を摺込んだ。この狂歌が呼び物となって、誰言うとなく淡島屋の団扇で餅を煽《あお》ぐと運が向いて来るといい伝えた。昔は大抵な家では自宅へ職人を呼んで餅を搗《つ》かしたもんで、就中、下町《したまち》の町家では暮の餅搗を吉例としたから淡島屋の団扇はなければならぬものとなって、毎年の年の市には景物目的《めあて》のお客が繁昌し、魚河岸《うおがし》あたりの若い衆は五本も六本も団扇を貰《もら》って行ったそうである。

五 神楽坂路考

 これほどの才人であったが、笑名《わらいな》は商売に忙がしかった乎《か》、但しは註文が難かしかった乎して、縁が遠くてイツまでも独身で暮していた。

 

 その頃牛込の神楽坂《かぐらざか》に榎本という町医《まちい》があった。毎日門前に商人が店を出したというほど流行したが、実収の多いに任して栄耀《えよう》に暮し、何人も妾《めかけ》を抱えて六十何人の児供《こども》を産ました。その何番目かの娘のおらいというは神楽坂路考《ろこう》といわれた評判の美人であって、妙齢《としごろ》になって御殿奉公から下がると降るほどの縁談が申込まれた。淡島軽焼の笑名《わらいな》も美人の噂を聞いて申込んだ一人であった。


 然るに六十何人の大家族を抱えた榎本は、表面《うわべ》は贅沢《ぜいたく》に暮していても内証は苦しかったと見え、その頃は長袖《ながそで》から町家へ縁組する例は滅多になかったが、家柄《いえがら》よりは身代を見込んで笑名に札が落ちた。商売運の目出たい笑名は女運にも果報があって、老《おい》の漸《ようや》く来《きた》らんとするころとうとう一の富《とみ》を突き当てて妙齢の美人を妻とした。


 尤も笑名はその時は最早ただの軽焼屋ではなかった。将軍家大奥の台一式の御用を勤めるお台屋《だいや》の株を買って立派な旦那衆となっていた。天保の饑饉年《ききんどし》にも、普通の平民は余分の米を蓄える事が許されないで箪笥《たんす》に米を入れて秘《かく》したもんだが、淡島屋だけは幕府のお台を作る糊《のり》の原料という名目で大びらに米俵を積んで置く事が出来る身分となっていた。が、富は界隈《かいわい》に並ぶ者なく、妻は若くして美くしく、財福艶福が一時に集まったが、半世の奮闘の労《つか》れは功成り意満つると共に俄に健康の衰えを来した。加うるに艶妻が祟《たたり》をなして二人の娘を挙げると間もなく歿《ぼっ》したが、若い美くしい寡婦は賢にして能《よ》く婦道を守って淡島屋の暖簾《のれん》を傷つけなかった。

六 川越の農家の子——椿岳及び伊藤八兵衛

 爰《ここ》に川越《かわごえ》在の小ヶ谷村に内田という豪農があった。(今でもその家は歴とした豪農である。)その分家のやはり内田という農家に三人の男の子が生れた。総領は児供の時から胆略があって、草深い田舎で田の草を取って老朽ちる器でなかったから、これも早くから一癖《ひとくせ》あった季《すえ》の弟の米三郎と二人して江戸へ乗出し、小石川は伝通院《でんずういん》前の伊勢長《いせちょう》といえばその頃の山の手切っての名代の質商伊勢屋長兵衛方へ奉公した。この兄が後に伊藤八兵衛となり、弟が椿岳となったので、川越の実家は二番目の子が相続して今でもなお連綿としておるそうだ。


 椿岳の兄が伊藤の養子婿となったはどういう縁故であったか知らないが、伊藤の屋号をやはり伊勢屋といったので推すと、あるいは主家の伊勢長の一族であって、主人の肝煎《きもいり》で養子に行ったのかも知れない。


 伊藤というはその頃京橋十人衆といわれた幕府の勢力ある御用商人の一人で、家柄も宜《よ》かったし、資産も持っていた。が、天下の大富豪と仰がれるようになったのは全く椿岳の兄の八兵衛の奮闘努力に由るので、幕末における伊藤八兵衛の事業は江戸の商人の掉尾《とうび》の大飛躍であると共に、明治の商業史の第一頁《ページ》を作っておる。


 椿岳の米三郎が淡島屋の養子となったは兄伊藤八兵衛の世話であった。「出雲なる神や結びし淡島屋、伊勢八幡の恵み受けけり」という自祝の狂歌は縁組の径路を証明しておる。(伊勢八幡というは伊藤八兵衛の通り名を伊勢八と称したからである。)媒合《めあ》わされた娘は先代の笑名と神楽坂路考のおらいとの間に生れた総領のおくみであって、二番目の娘は分家させて質屋を営ませ、その養子婿に淡島屋嘉兵衛と名乗らした。本家は風流に隠れてしまったが、分家は今でも馬喰町に繁昌している。地震の火事で丸焼けとなったが、再興して依然町内の老舗《しにせ》の暖簾《のれん》といわれおる。


 椿岳の米三郎は早くから絵事に志ざした風流人であって、算盤《そろばん》を弾《はじ》いて身代を肥やす商売人肌ではなかった。初めから長袖《ながそで》を志望して、ドウいうわけだか神主《かんぬし》になる意《つもり》でいたのが兄貴の世話で淡島屋の婿養子となったのだ。であるから、金が自由になると忽《たちま》ちお掛屋《かけや》(今の銀行業のようなもの。)の株を買って、町人ながらも玄関に木剣、刺叉《さすまた》、袖がらみを列べて、ただの軽焼屋の主人で満足していなかった。丁度兄の伊藤八兵衛が本所の油堀《あぶらぼり》に油会所《かいしょ》を建て、水藩の名義で金穀その他の運上を扱い、業務上水府の家職を初め諸藩のお留守居、勘定役等と交渉する必要があったので、伊藤は専《もっぱ》ら椿岳の米三郎を交際方面に当らしめた。


 伊藤は牙籌《がちゅう》一方の人物で、眼に一丁字なく、かつて応挙《おうきょ》の王昭君《おうしょうくん》の幅を見て、「椿岳、これは八百屋《やおや》お七か」と訊《き》いたという奇抜な逸事を残したほどの無風流漢であった。随って商売上武家と交渉するには多才多芸な椿岳の斡旋《とりもち》を必要としたので、八面玲瓏《れいろう》の椿岳の才機は伊藤を助けて算盤玉以上に伊藤を儲《もう》けさしたのである。


 伊藤八兵衛の成功は幕末に頂巓《ちょうてん》に達し、江戸一の大富限者として第一に指を折られた。元治年中、水戸の天狗党《てんぐとう》がいよいよ旗上げしようとした時、八兵衛を後楽園《こうらくえん》に呼んで小判五万両の賦金を命ずると、小判五万両の才覚は難かしいが二分金なら三万両を御用立て申しましょうと答えて、即座に二分金の耳を揃《そろ》えて三万両を出したそうだ。御一新の御東幸の時にも、三井《みつい》の献金は三万両だったが八兵衛は五万両を献上した。またどういう仔細があったか知らぬが、維新の際に七十万両の古金銀を石の蓋匣《かろうど》に入れて地中に埋蔵したそうだ。八兵衛の富力はこういう事実から推しても大抵想像される。その割合には名前が余り知られていないが、一生の事業と活動とは維新の商業史の重要な頁を作っておる。今では堀田伯の住邸となってる本所の故宅の庭園は伊藤の全盛時代に椿岳が設計して金に飽かして作ったもので、一木一石が八兵衛兄弟の豪奢《ごうしゃ》と才気の名残を留めておる。地震でドウなったか知らぬが大方今は散々に荒廃したろう。(八兵衛の事蹟については某の著わした『天下之伊藤八兵衛』という単行の伝記がある、また『太陽』の第一号に依田学海の「伊藤八兵衛伝」が載っておる。実業界に徳望高い某子爵は素《も》と八兵衛の使用人であって、先年物故した夫人はタシカ八兵衛の遺子であった。)

七 小林城三

 椿岳は晩年には世間離れした奇人で名を売ったが、若い時には相当に世間的野心があってただの町人では満足しなかった。油会所時代に水戸の支藩の廃家の株を買って小林城三と改名し、水戸家に金千両を献上して葵《あおい》の御紋服を拝領し、帯刀の士分に列してただの軽焼屋の主人ではなくなった。椿岳が小林姓を名乗ったは妻女と折合が悪くて淡島屋を離別されたからだという説があるが全く誤聞である。椿岳が小林姓を名乗ったのは名聞好《みょうもんず》きから士族の廃家の株を買って再興したので、小林城三と名乗って別戸してからも多くは淡島屋に起臥《きが》して依然主人として待遇されていたので、小林城三でもありまた淡島屋でもあったのだ。


 尤もその頃は武家ですらが蓄妾を許され、町家はなお更家庭の道徳が弛廃《しはい》していたから、さらぬだに放縦な椿岳は小林城三と名乗って別に一戸を構えると小林家にもまた妻らしい女を迎えた。今なら重婚であるが、その頃は門並《かどなみ》が殆んど一夫多妻で、妻妾一つ家に顔を列べてるのが一向珍らしくなかったのだから、女房を二人持っても格別不思議とも思われなかった。そういう時勢であったから椿岳は二軒懸持《かけもち》の旦那で頤《あご》を撫《な》でていたが、淡島屋の妻たるおくみは男勝《まさ》りの利《き》かぬ気であったから椿岳の放縦気随に慊《あきた》らないで自然段々と疎々《うとうと》しくなり、勢い椿岳は小林の新らしい妻にヨリ深く親《したし》むようになった。かつ淡島屋の身代は先代が作ったので、椿岳は天下の伊藤八兵衛の幕僚であっても、身代を作るよりは減らす方が上手《じょうず》で、養家の身代を少しも伸ばさなかったから、こういう破目《はめ》となると自然淡島屋を遠ざかるのが当然であって、維新後は互に往来していても家族的関係は段々と薄らいで来た。


 それ故、維新後は本姓の服部よりは世間に通りの好《い》い淡島と改称して、世間からも淡島と呼ばれていたが、戸籍面の本姓が小林であるばかりでなく、事実上淡島屋を別戸していた。随って椿岳の後継《あとつぎ》は二軒に支《わか》れ、正腹は淡島姓を継ぎ、庶出は小林姓を名乗ったが、二軒は今では関係が絶えて小林の跡は盛岡に住んでるそうだ。


 が、小林にしろ淡島にしろ椿岳の画名が世間に歌われたのは維新後であって、維新前までは馬喰町四丁目の軽焼屋の服部喜兵衛、又《また》の名を小林城三といった油会所の手代《てだい》であった。が、伊藤八兵衛の智嚢《ちのう》として円転滑脱な才気を存分に振ったにしろ、根が町人よりは長袖《ながそで》を望んだ風流人肌《はだ》で、算盤《そろばん》を持つのが本領でなかったから、維新の変革で油会所を閉じると同時に伊藤と手を分ち、淡島屋をも去って全く新らしい生活に入った。これからが満幅《まんぷく》の奇を思うままに発揮した椿岳の真生活であって、軽焼屋や油会所時代は椿岳の先史時代であった。

八 浅草生活——大眼鏡から淡島堂の堂守

 椿岳の浅草生活は維新後から明治十二、三年頃までであった。この時代が椿岳の最も奇を吐いた盛りであった。
 伊藤八兵衛と手を分ったのは維新早々であったが、その頃は伊藤もまだ盛んであったから椿岳の財嚢もまたかなり豊からしかった。浅草の伝法院《でんぽういん》へ度々融通したのが縁となって、その頃の伝法院の住職唯我教信と懇《ねんご》ろにした。この教信は好事《こうず》の癖ある風流人であったから、椿岳と意気投合して隔てぬ中の友となり、日夕往来して数寄《すき》の遊びを侶《とも》にした。その頃椿岳はモウ世間の名利を思切った顔をしていたが、油会所の手代時代の算盤気分がマダ抜けなかったと見えて、世間を驚かしてやろうという道楽五分に慾得《よくとく》五分の算盤玉を弾《はじ》き込んで一と山当てるツモリの商売気が十分あった。その頃どこかの気紛《きまぐ》れの外国人がジオラマの古物《ふるもの》を横浜に持って来たのを椿岳は早速買込んで、唯我教信と相談して伝法院の庭続きの茶畑を拓《ひら》き、西洋型の船に擬《なぞら》えた大きな小屋《こや》を建て、舷側《げんそく》の明り窓から西洋の景色や戦争の油画を覗かせるという趣向の見世物《みせもの》を拵《こしら》え、那破烈翁《ナポレオン》や羅馬《ローマ》法王の油画肖像を看板として西洋覗眼鏡《のぞきめがね》という名で人気を煽《あお》った。何しろ明治二、三年頃、江漢系統の洋画家ですら西洋の新聞画をだも碌々《ろくろく》見たものが少なかった時代だから、忽《たちま》ち東京中の大評判となって、当時の新らし物好きの文明開化人を初め大官貴紳までが見物に来た。人気の盛んなのは今日の帝展どころでなかった。油画の元祖の川上冬崖《かわかみとうがい》は有繋《さすが》に名称を知っていて、片仮名で「ダイオラマ」と看板を書いてくれた。泰山前に頽《くず》るるともビクともしない大西郷《だいさいごう》どんさえも評判に釣込まれてワザワザ見物に来て、大《おおい》に感服して「万国一覧」という大字の扁額を揮《ふる》ってくれた。こういう大官や名家の折紙が附いたので益々《ますます》人気を湧《わ》かして、浅草の西洋覗眼鏡を見ないものは文明開化人でないようにいわれ、我も我もと毎日見物の山をなして椿岳は一挙に三千円から儲《もう》けたそうだ。


 今なら三千円ぐらいは素丁稚《すでっち》でも造作もなく儲けられるが、小川町や番町《ばんちょう》あたりの大名屋敷や旗下《はたもと》屋敷が御殿ぐるみ千坪十円ぐらいで払下《はらいさ》げ出来た時代の三千円は決して容易でなかったので、この奇利を易々《やすやす》と攫《つか》んだ椿岳の奇才は天晴《あっぱれ》伊藤八兵衛の弟たるに恥じなかった。が、世間を思切って利慾を捨てた椿岳は、猿が木から木へと木の実を捜して飛んで行くように、金儲けから金儲けへと慾一方で固《かた》まるのを欲しなかった。


 明治七、八年頃、浅草の寺内が公園となって改修された。椿岳の住《すま》っていた伝法院の隣地は取上げられて代地を下附されたが、代地が気に入らなくて俺《おれ》のいる所がなくなってしまったと苦情をいった。伝法院の唯我教信が調戯《からかい》半分に「淡島椿岳だから寧《いっ》そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、洒落気《しゃれけ》と茶番気タップリの椿岳は忽ち乗気《のりき》となって、好きな事仕尽《しつく》して後のお堂守《どうもり》も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。


 淡島堂というは一体何を祀《まつ》ったもの乎《か》祭神は不明である。彦少名命《ひこすくなのみこと》を祀るともいうし、神功皇后《じんぐうこうごう》と応神天皇とを合祀《ごうし》するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左《と》に右《か》く紀州の加太《かだ》の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって、仏具を飾って僧侶《そうりょ》がお勤めをしていたから、椿岳もまた頭を剃円《そりまろ》めて法体《ほったい》し、本然《ほんねん》と名を改めて暫《しば》らくは淡島様のお守をしていた。


 この淡島堂のお堂守時代が椿岳本来の面目を思う存分に発揮したので、奇名が忽ち都下に喧伝《けんでん》した。当時朝から晩まで代る代るに訪ずれるのは類は友の変物奇物ばかりで、共に画を描き骨董《こっとう》を品して遊んでばかりいた。大河内《おおこうち》子爵の先代や下岡蓮杖《しもおかれんじょう》や仮名垣魯文《かながきろぶん》はその頃の重なる常連であった。参詣人が来ると殊勝な顔をしてムニャムニャムニャと出放題なお経を誦《ず》しつつお蝋《ろう》を上げ、帰ると直ぐ吹消してしまう本然坊主のケロリとした顔は随分人を喰ったもんだが、今度のお堂守さんは御奇特な感心なお方《かた》だという評判が信徒の間に聞えた。


 椿岳が浅草に住《すま》っていたは維新後から十二、三年頃までであった。この時代が最も椿岳の奇才を発揮して奇名を売った時で、椿岳と浅草とは離れぬ縁の聯想《れんそう》となった。浅草を去ったのは明治十二、三年以後で、それから後は牛島の梵雲庵に梵唄雨声《ぼんばいうせい》と琵琶《びわ》と三味線を楽《たのし》んでいた。

 

 

九 椿岳の人物——狷介不羈なる半面

 椿岳の出身した川越の内田家には如何《いか》なる天才の血が流れていたかは知らぬが、長兄の伊藤八兵衛は末路は余り振わなかったが、一度は天下の伊藤八兵衛と鳴らした巨富を作ったし、弟の椿岳は天下を愚弄《ぐろう》した不思議な画家の生涯を送った。

 

 だが、椿岳は根からの風流人でも奇人でもなかった。実は衒気《げんき》五分市気三分の覇気《はき》満々たる男で、風流気は僅《わずか》に二分ほどしかなかった。生来の虚飾家《みえぼう》、エラがり屋で百姓よりも町人よりも武家格式の長袖を志ざし、伊藤八兵衛のお庇《かげ》で水府の士族の株を買って得意になって武家を気取っていた。が、幕府が瓦解《がかい》し時勢が一変し、順風に帆を揚げたような伊藤の運勢が下《くだ》り坂《ざか》に向ったのを看取すると、天性の覇気が脱線して桁《けた》を外《はず》れた変態生活に横流した。椿岳の生活の理想は俗世間に凱歌《がいか》を挙げて豪奢《ごうしゃ》に傲《おご》る乎《か》、でなければ俗世間に拗《す》ねて愚弄《ぐろう》する乎、二つの路のドッチかより外なかった。


 椿岳は奇才縦横円転滑脱で、誰にでもお愛想をいった。決して人を外《そ》らさなかった。召使いの奉公人にまでも如才なくお世辞を振播《ふりま》いて、「家の旦那さんぐらいお世辞の上手な人はない」と奉公人から褒《ほ》められたそうだ。伊藤八兵衛に用いられたのはこの円転滑脱な奇才で、油会所の外交役となってから益々練磨された。晩年変態生活を送った頃は年と共にいよいよ益々老熟して誰とでも如才なく交際し、初対面の人に対してすらも百年の友のように打解けて、苟《かりそめ》にも不快の感を与えるような顔を決してしなかったそうだ。

 

 が、この円転滑脱は天禀《うまれつき》でもあったが、長い歳月に段々と練上げたので、ことさらに他人の機嫌を取るためではなかった。その上に余り如才がなさ過ぎて、とかく一人で取持って切廻し過ぎるのでかえって人をテレさせて、「椿岳さんが来ると座が白ける」と度々人にいわれたもんだ。円転滑脱ぶりが余りに傍若無人に過ぎていた。海に千年、山に千年の老巧手だれの交際上手であったが、人の顔色を見て空世辞《からせじ》追従笑《ついしょうわら》いをする人ではなかった。


 淡島家の養子となっても、後生大事《ごしょうだいじ》に家付き娘の女房の御機嫌ばかり取る入聟形気《いりむこがたぎ》は微塵《みじん》もなかった。随分内《うち》を外《そと》の勝手気儘《きまま》に振舞っていたから、奉公人には内の旦那さんは好い旦那と褒められたが、細君には余り信用されもせず大切がられもしなかった。

 

 殊にお掛屋《かけや》の株を買って多年の心願の一端が協《かな》ってからは木剣、刺股《さすまた》、袖搦《そでがらみ》を玄関に飾って威儀堂々と構えて軒並《のきなみ》の町家を下目《しため》に見ていた。世間並のお世辞上手な利口者なら町内の交際《つきあい》ぐらいは格別辛《つら》くも思わないはずだが、毎年の元旦に町名主《まちなぬし》の玄関で叩頭《おじぎ》をして御慶《ぎょけい》を陳《の》べるのを何よりも辛がっていた、負け嫌いの意地《いじ》ッ張《ぱり》がこんな処に現われるので、心からの頭の低い如才ない人では決してなかった。小林城三となって後、金千両を水戸様へ献上して葵の時服を拝領してからの或時、この御紋服を着て馬上で町内へ乗込むと偶然町名主に邂逅《でっくわ》した。その頃はマダ葵の御紋の御威光が素晴らしい時だったから、町名主は御紋服を見ると周章《あわ》てて土下座《どげざ》をして恭《うやう》やしく敬礼した。毎年の元旦に玄関で平突張《へいつくば》らせられた忌々《いまいま》しさの腹慰《はらい》せが漸《やっ》とこさと出来て、溜飲《りゅういん》が下《さが》ったようなイイ気持がしたと嬉《うれ》しがった。表面《うわべ》は円転滑脱の八方美人らしく見えて、その実椿岳は容易に人に下《くだ》るを好まない傲岸《ごうがん》不屈の利《き》かん坊《ぼう》であった。

十 椿岳の畸行

 作さんの家内太夫入門・東京で初めてのピヤノ弾奏者・椿岳名誉の琵琶・山門生活とお堂守・浅草の畸人の一群・椿岳の着物・椿岳の住居・天狗部屋・女道楽・明治初年の廃頽的空気
 

 負け嫌いの椿岳は若い時から誰でも呑《の》んで掛って人を人臭いとも思わなかった。その頃横山町に家内太夫という清元《きよもと》のお師匠さんがあった。椿岳はこのお師匠さんに弟子入りして清元の稽古《けいこ》を初めたが、家族にも秘密ならお師匠さんにも淡島屋の主人であるのを秘して、手代か職人であるような顔をして作さんと称していた。それから暫らく経って椿岳の娘(寒月の姉)が同じお師匠さんに入門すると、或時家内太夫は「あなたのお店の作さんは大層出世をしたと見えてこの頃は馬に乗ってますネ、」といった。作さんという人は店に在《い》ないから、椿岳の娘は不思議に思って段々作さんという人の容子を聞くと、馬に乗ってるという事から推しても父の椿岳に違いないので、そんならお父さんですというと、家内太夫は初めて知って喫驚《びっくり》したそうだ。椿岳は万事がこういう風に人を喰っていた。


 浅草以来の椿岳の傍若無人な畸行《きこう》はこういう人を喰った気風から出ているのだ。明治四、五年頃、ピヤノやヴァイオリンが初めて横浜へ入荷した時、新らし物好きの椿岳は早速買込んで神田今川橋の或る貸席《かしせき》で西洋音楽機械展覧会を開いた。今聞くと極めて珍妙な名称であるが、その頃は頗《すこぶ》るハイカラに響いたので、当日はいわゆる文明開化の新らしがりがギシと詰掛けた。この満場爪《つめ》も立たない聴衆の前で椿岳は厳乎《しかつべ》らしくピヤノの椅子《いす》に腰を掛け、無茶苦茶に鍵盤《けんばん》を叩《たた》いてポンポン鳴らした。何しろ洋楽といえば少数の文明開化人が横浜で赤隊《あかたい》(英国兵)の喇叭《らっぱ》を聞いたばかりの時代であったから、満場は面喰《めんくら》って眼を白黒しながら聴かされて煙に巻かれてピシャピシャと拍手大喝采をした。文部省が音楽取調所を創設した頃から十何年も前で、椿岳は恐らく公衆の前でピヤノを弾奏した、というよりは叩いた最初の日本人であろう。(このピヤノは後に吉原の彦太楼尾張屋の主人が買取った。この彦太楼尾張屋の主人というは藐庵《みゃくあん》や文楼《ぶんろう》の系統を引いた当時の廓中第一の愚慢大人で、白無垢《しろむく》を着て御前と呼ばせたほどの豪奢を極め、万年青《おもと》の名品を五百鉢から持っていた物数寄《ものずき》であった。ピヤノを買ったのも音楽好きよりは珍らし物好きの愚慢病であった。が、日本の洋楽が椿岳や彦太楼尾張屋の楼主から開拓されたというは明治の音楽史研究者の余り知らない頗《すこぶ》る変梃《へんてこ》な秘史である。)


 椿岳は諸芸に通じ、蹴鞠《けまり》の免状までも取った多芸者であった。お玉ヶ池に住んでいた頃、或人が不斗《ふと》尋ねると、都々逸《どどいつ》端唄《はうた》から甚句《じんく》カッポレのチリカラカッポウ大陽気《おおようき》だったので、必定《てっきり》お客を呼んでの大酒宴《おおさかもり》の真最中《まっさいちゅう》と、暫《しば》らく戸外《おもて》に佇立《たちどま》って躊躇《ちゅうちょ》していたが、どうもそうらしくもないので、やがて玄関に音なうと、ピッタリ三味線が止んで現れたのはシラフの真面目《まじめ》な椿岳で、「イヤこれはこれは、今日は全家《うちじゅう》が出払って余り徒然《つれづれ》なので、番茶を淹《い》れて単《ひと》りで浮《うか》れていた処サ。」と。多芸も多芸であったが、こういう世間を茶にする真似《まね》もした。


 椿岳の多芸は評判であったが、中には随分人を喰った芸もあった。椿岳は平素琵琶を愛して片時も座右を離さなかったので、椿岳の琵琶といえばかなりな名人のように聞えていた。が、実はホンの手解《てほど》きしか稽古しなかった。その頃福地桜痴《ふくちおうち》が琵琶では鼻を高くし、桜痴の琵琶には悩まされながらも感服するものが多かった。負けぬ気の椿岳は業を煮やして、桜痴が弾《ひ》くなら俺だって弾けると、誰の前でも怯《お》めず臆せずベロンベロンと掻鳴《かきな》らし、勝手な節をつけては盛んに平家を唸《うな》ったものだ。意気込の凄《すさ》まじいのと態度の物々しいのとに呑まれて、聴かされたものは大抵巧《うま》いもんだと出鱈目《でたらめ》を感服したので、とうとう椿岳は琵琶の名人という事になった。椿岳は諸芸に通じていたに違いないが、中にはこういう人を喰った芸も多かった。


 椿岳の山門生活も有名な咄《はなし》である。覗目鏡《のぞきめがね》を初める時分であった。椿岳は何処《どこ》にもいる処がないので、目鏡の工事の監督かたがた伝法院の許しを得て山門に住《すま》い、昔から山門に住ったものは石川五右衛門と俺の外にはあるまいと頗る得意になっていた。或人が、さぞ不自由でしょうと訊《き》いたら、何にも不自由はないが毎朝虎子《おかわ》を棄てに行くのが苦労だといったそうだ。有繋《さすが》の椿岳も山門住居《ずまい》では夜は虎子の厄介になったものと見える。


 淡島堂のお堂守となったはこれから数年後であるが、一夜道心の俄坊主《にわかぼうず》が殊勝な顔をして、ムニャムニャとお経を誦《よ》んでお蝋を上げたは山門に住んだと同じ心の洒落《しゃれ》から思立ったので、信仰が今日よりも一層堕落していた明治の初年の宗教破壊気分を想像される。


 浅草は今では活動写真館が軒を並べてイルミネーションを輝《かがや》かし、地震で全滅しても忽ち復興し、十二階が崩壊しても階下に巣喰った白首《しろくび》は依然隠顕出没して災後の新らしい都会の最も低級な享楽を提供している。が、地震では真先きに亡ぼされたが、維新の破壊の手は一番遅れて浅草に及んだので、明治十四、五年ごろまでは江戸の気分がマダ浅草には漂っていた。一つは椿岳や下岡蓮杖や鵜飼三次《うがいさんじ》というような江戸の遺老が不思議に寺内に集って盛んに江戸趣味を発揮したからであった。この鵜飼三次というは学問の造詣も深く鑑識にも長じ、蓮杖などよりも率先して写真術を学んだほどの奇才で、一と頃町田久成《まちだひさなり》の古物顧問となっていた。この拗者《すねもの》の江戸の通人が耳の垢取《あかと》り道具を揃《そろ》えて元禄の昔に立返って耳の垢取り商売を初めようというと、同じ拗者仲間の高橋由一《たかはしゆいち》が負けぬ気になって何処《どこ》からか志道軒《しどうけん》の木陰を手に入れて来て辻談義《つじだんぎ》を目論見《もくろみ》、椿岳の浅草絵と鼎立《ていりつ》して大《おおい》に江戸気分を吐こうと計画した事があった。当時の印刷局長得能良介《とくのうりょうすけ》は鵜飼老人と心易《こころやす》くしていたので、この噂《うわさ》を聞くと真面目になって心配し、印刷局へ自由勤めとして老人を聘《へい》して役目で縛りつけたので、結局この計画は中止となり、高橋の志道軒も頓挫《とんざ》してしまった。マジメに実行するツモリであったかドウか知らぬが、この時分はこうした茶気《ちゃき》満々な計画が殆《ほと》んど実行され掛ったほどシャレた時代であった。


 椿岳は普通の着物が嫌いであった。身幅《みはば》の狭いのは職人だといってダブダブした着物ばかり着ていた。或時は無地物《むじもの》に泥絵具《どろえのぐ》でやたら[#「やたら」に傍点]縞《しま》を描《か》いたのを着ていた。晩年には益々昂《こう》じて舶来の織出し模様の敷布《シーツ》を買って来て、中央に穴を明けてスッポリ被《かぶ》り、左右の腕に垂れた個処を袖形《そでがた》に裁《た》って縫いつけ、恰《まる》で酸漿《ほおずき》のお化けのような服装《なり》をしていた事があった。この服装《なり》が一番似合うと大《おおい》に得意になって写真まで撮《と》った。服部長八の漆喰細工《しっくいざいく》の肖像館という見世物に陳列された椿岳の浮雕《レリーフ》塑像はこの写真から取ったのであった。


 椿岳は着物ばかりでなく、そこらで売ってる仕入物《しいれもの》が何でも嫌いで皆手細工《てざいく》であった。紙入《かみいれ》や銭入も決して袋物屋の出来合《できあい》を使わないで、手近《てぢか》にあり合せた袋で間に合わしていた。何でも個性を発揮しなければ気が済まないのが椿岳の性分《しょうぶん》で、時偶《ときたま》市中の出来合を買って来ても必ず何かしら椿岳流の加工をしたもんだ。


 なお更住居には意表外の数寄《すき》を凝らした。地震で焼けた向島《むこうじま》の梵雲庵は即ち椿岳の旧廬《きゅうろ》であるが、玄関の額も聯《れん》も自製なら、前栽《せんざい》の小笹《おざさ》の中へ板碑や塔婆を無造作に排置したのもまた椿岳独特の工風《くふう》であった。この小房の縁に踞《きょ》して前栽に対する時は誰でも一種特異の気分が湧く。就中《なかんずく》椿岳が常住起居した四畳半の壁に嵌込《はめこ》んだ化粧窓《けしょうまど》は蛙股《かえるまた》の古材を両断して合掌に組合わしたのを外框《わく》とした火燈型で、木目《もくめ》を洗出された時代の錆《さび》のある板扉《いたど》の中央に取附けた鎌倉時代の鉄の鰕錠《えびじょう》が頗る椿岳気分を漂わしていた。更にヨリ一層椿岳の個性を発揮したのは、モウ二十年も前に毀《こぼ》たれたが、この室に続く三方《さんぼう》壁《かべ》の明り窓のない部屋であった。周囲を杉の皮で張って泥絵具《どろえのぐ》で枝を描き、畳の隅《すみ》に三日月形の穴を開け、下から微《かす》かに光線を取って昼なお暗き大森林を偲《しの》ばしめる趣向で、これを天狗部屋と称していた。この人の顔さえ定かならぬ薄暗い室に端座してベロンベロンと秘蔵の琵琶を掻鳴らす時の椿岳会心の微笑を想像せよ。恐らく今日の切迫した時代では到底思い泛《うか》べる事の出来ない畸人《きじん》伝中の最も興味ある一節であろう。


 椿岳の女道楽もまた畸行の一つに数うべきである。が、爰《ここ》に一つ註釈を加えねばならないのは元来江戸のいわゆる通人間には情事を風流とする伝襲があったので、江戸の通人の女遊びは一概に不品行呼ばわりする事は出来ない。このデカダン興味は江戸の文化の爛熟《らんじゅく》が産んだので、江戸時代の買妓《ばいぎ》や蓄妾は必ずしも淫蕩《いんとう》でなくて、その中に極めて詩趣を掬《きく》すべき情味があった。今の道徳からいったら人情本の常套《じょうとう》の団円たる妻妾の三曲合奏というような歓楽は顰蹙《ひんしゅく》すべき沙汰《さた》の限りだが、江戸時代には富豪の家庭の美くしい理想であったのだ。


 が、諸藩の勤番の田舎侍《いなかざむらい》やお江戸見物の杢十田五作《もくじゅうたごさく》の買妓にはこの江戸情調が欠けていたので、芝居や人情本ではこういう田五作や田舎侍は無粋《ぶすい》な執深《しつぶか》の嫌われ者となっている。維新の革命で江戸の洗練された文化は田舎侍の跋扈《ばっこ》するままに荒され、江戸特有の遊里情調もまた根底から破壊されて殺風景なただの人肉市場となってしまった。蓄妾もまた、勝誇《かちほこ》った田舎侍が分捕物《ぶんどりもの》の一つとして扱ったから、昔の江戸の武家のお部屋《へや》や町家の囲女《かこいめ》の情緒はまるで失《な》くなって、丁度今の殖民地の「湾妻」や「満妻」を持つような気分になってしまった。当時の成上りの田舎侍どもが郷里の糟糠《そうこう》の妻を忘れた新らしい婢妾《ひしょう》は権妻《ごんさい》と称されて紳士の一資格となり、権妻を度々取換えれば取換えるほど人に羨《うらや》まれもしたし自らも誇りとした。


 こういう道義的アナーキズム時代における人の品行は時代の背景を斟酌《しんしゃく》して考慮しなければならない。椿岳は江戸末季の廃頽的空気に十分浸って来た上に、更にこういう道義的アナーキズム時代に遭逢したのだから、さらぬだに世間の毀誉褒貶《きよほうへん》を何の糸瓜《へちま》とも思わぬ放縦な性分に江戸の通人を一串《いっかん》した風流情事の慾望と、淫蕩な田舎侍に荒らされた東京の廃頽気分とが結び付いて勢い女道楽とならざるを得なかった。椿岳は取換え引換え妾を持って、通り掛《がか》りに自分の妾よりも美くしい女を見ると直ぐ換えたというほど盛んに取換えて、一生に百六十人以上の妾を持ったというはまた時代の悪瓦斯《ガス》に毒された畸行の一つであった。だが、この椿岳の女道楽を単なる漁色とするは時代を無視した謬見《びゅうけん》である。


 椿岳は物故する前二、三年、一時千束《せんぞく》に仮寓《かぐう》していた。その頃女の断髪が流行したので、椿岳も妻女(小林家の)の頭髪を五分刈に短く刈らして、客が来ると紹介していう、これは同庵の尼でございますと。大抵のお客は挨拶《あいさつ》にマゴマゴしてしまった。その頃であった、或る若い文人が椿岳を訪《たず》ねると、椿岳は開口一番「能《よ》く来なましたネエ」と。禅の造詣が相当に深いこの若い文人も椿岳の「能く来なましたネエ」には老禅匠の一喝よりもタジタジとなった。


 椿岳の畸行は書立てれば殆んど際限がないくらい朝から晩までが畸行の連続であった。芸術即生活は椿岳に由《よっ》て真に実現されたので、椿岳の全生活は放胆自由な椿岳の画そのままの全芸術であった。それ故に椿岳の画を見るには先ずその生活を知らねばならないので、その生活を知って然《しか》る後《のち》に初めてその画の真趣を理解する事が出来る。椿岳の画の妙味はその畸行と照応していよいよ妙味を深くする感がある。

十一 画人椿岳

 

椿岳の画才及び習画の動機


 椿岳の実家たる川越の内田家には芸術の血が流れていたと見えて、椿岳の生家にもその本家にも画人があったそうだ。椿岳も児供の時から画才があって、十二、三歳の頃に描いた襖画《ふすまえ》が今でも川越の家に残ってるそうだが、どんな田舎の百姓家にしろ、襖画を描くというはヘマムシ入道《にゅうどう》や「へへののもへじ」の凸坊《でこぼう》の自由画でなかった事は想像される。椿岳の画才はけだし天禀であったろう。


 が、正式に画を習い初めたのは淡島屋の養子となってから後であった。小さい時から長袖《ながそで》が志望であったというから、あるいは画師となって立派に門戸を張る心持がまるきりなかったとも限らないが、その頃は淡島屋も繁昌していたし、椿岳の兄の伊藤八兵衛は飛ぶ鳥を落す勢いであったから、画を生活のたつきとする目的よりはやはり金持の道楽として好きな道から慰みに初めたのであろうと思う。

 


椿岳の画の系統


 椿岳が師と仰いで贄《し》を執ったのは大西椿年《おおにしちんねん》であった。当時椿年は蔵前《くらまえ》に画塾を開いていたので、椿年の画風を喜んだというよりは馬喰町の家から近かったのでその門に入ったのだろう。椿岳の号は即ち師の一字を許されたのであった。椿年は南岳《なんがく》の弟子で、南岳は応挙の高足源※[#「王+奇」、第3水準1-88-6]《たかあしげんき》に学んだのだから、椿岳は応挙の正統の流れを汲んだ玄孫《やしゃご》弟子であった。

 

 馬喰町時代の椿岳の画は克明に師法を守って少しも疎《おろ》そかにしなかった。その時代の若書《わかが》きとして残ってるもの、例えば先年の椿岳展覧会に出品された淡島嘉兵衛旧蔵の飛燕凝粧の図の如きは純然たる椿年派であって奔放無礙《むげ》の晩年の画ばかり知ってるものは一見して偽作と思うだろう。が、その家に伝わったもので、画は面白くなくても椿岳の師伝を証する作である。(この画は先年淡島家の売立てに出たので今は誰の所有に帰しているか解らぬ。)椿年歿して後は高久隆古《たかくりゅうこ》に就き、隆古が死んでからは専ら倭絵《やまとえ》の粉本《ふんぽん》について自得し、旁《かたわ》ら容斎《ようさい》の教《おしえ》を受けた。隆古には殊に傾倒していたと見えて、隆古の筆意は晩年の作にまで現れていた。いわゆる浅草絵の奔放遒勁《しゅうけい》なる筆力は椿年よりはむしろ隆古から得たのであろう。が、師伝よりは覚猷《かくゆう》、蕪村《ぶそん》、大雅《たいが》、巣兆《そうちよう》等の豪放洒落な画風を学んで得る処が多かったのは一見直ちに認められる。


 かつ何でも新らしもの好きで、維新後には洋画を学んで水彩は本より油画までも描いた。明治の初年に渡来した英国人の画家ワグマンとも深く交わった。特にワグマンについて真面目に伝習したとは思われないが、ブラシの使い方や絵具の用法等、洋画のテクニックの種々の知識を教えられた事はあるようだ。明治八、九年頃の画家番附《ばんづけ》に淡島椿岳の上に和洋画とあるのを以て推すと、洋画家としてもまた相応に認められていたものと見える。今、残ってる椿岳の水彩や油画はいずれも極めて幼稚な作であるが、番附面における如く洋画家としてもまた多少認められていたとすると、椿岳の名は日本の洋画史の先駆者の一人としてもまた伝えられべきである[#「伝えられべきである」はママ]。

 

 かつ椿岳の水彩や油画は歴史的興味以外に何の価値がない幼稚の作であるにしろ、洋画の造詣が施彩及び構図の上に清新の創意を与えたは随所に認められる。その著るしきは先年の展覧会に出品された広野健司氏所蔵の花卉《かき》の図の如き、これを今日の若い新らしい水彩画家の作と一緒に陳列しても裕《ゆう》に清新を争う事が出来る作である。


 椿岳の画はかくの如く淵原《えんげん》があって、椿年門とはいえ好む処のものを広く究《きわ》めて尽《ことごと》く自家薬籠《じかやくろう》中の物とし、流派の因襲に少しも縛られないで覚猷も蕪村も大雅も応挙も椿年も皆椿岳化してしまった。かつかくの如く縦横無礙に勝手気儘《きまま》に描いていても、根柢には多年の研鑽工風があったので、決して初めから出鱈目《でたらめ》に描きなぐって達者になったのではなかった。

 


椿岳の画家生活


 椿岳の画を学ぶや売るためでなかった。画家の交際をしていても画家と称されるのを欲しなかった。その頃の書家や画家が売名の手段は書画会を開くが唯一の策であった。今日の百画会は当時の書画会の変形であるが、展覧会がなかった時代には書画会以外に書家や画家が自ら世に紹介する道がなかったから、今日の百画会が無名の小画家の生活手段であると反して、当時の書画会は画を売るよりは名を売るを目的としてしばしば高名な書家や画家にすらも主催された。書画会を開かない画家文人は殆んど一人もなかった。

 

 この書画会の肝煎《きもいり》をするのが今の榛原や紀友《きとも》のような書画の材料商であって、当時江戸では今の榛原よりは一層手広く商売した馬喰町の扇面亭というが専ら書画会の世話人をした。同じ町内の交誼《よしみ》で椿岳は扇面亭の主人とはいたって心易く交際《つきあ》っていて、こういう便宜《びんぎ》があったにもかかわらず、かつて一度も書画会を開いた事がなかった。

 

 尤も椿岳は富有の商家の旦那であって、画師の名を売る必要はなかったのだ。が、その頃に限らず富が足る時は名を欲するのが古今の金持の通有心理で、売名のためには随分馬鹿げた真似をする。殊に江戸文化の爛熟した幕末の富有の町家は大抵文雅風流を衒《てら》って下手《へた》な発句の一つも捻《ひね》くり拙《まず》い画の一枚も描けば直ぐ得意になって本職を気取るものもあった。その中で左《と》に右《か》く画家として門戸を張るだけの技倆がありながら画名を売るを欲しないで、終《つい》に一回の書画会をだも開かなかったというは市井町人の似而非《えせ》風流の売名を屑《いさぎよ》しとしない椿岳の見識であろう。富有な旦那の冥利《みょうり》として他人の書画会のためには千円からの金を棄てても自分は乞丐《こじき》画師の仲間となるのを甘《あまん》じなかったのであろう。


 この寛闊《かんかつ》な気象は富有な旦那の時代が去って浅草生活をするようになってからも失《う》せないで、画はやはり風流として楽《たのし》んでいた、画を売って糊口《ここう》する考は少しもなかった。椿岳の個性を発揮した泥画《どろえ》の如きは売るための画としてはとても考え及ばないものである。

 


椿岳の泥画


 椿岳の泥画というは絵馬や一文人形《いちもんにんぎょう》を彩色するに用ゆる下等絵具の紅殻《べにがら》、黄土《おうど》、丹《たん》、群青《ぐんじょう》、胡粉《ごふん》、緑青《ろくしょう》等に少量の墨を交ぜて描いた画である。そればかりでなく泥面子《どろめんこ》や古煉瓦《ふるれんが》の破片を砕いて溶かして絵具とし、枯木《かれき》の枝を折って筆とした事もあった。その上に琉球唐紙《からかみ》のような下等の紙を用い、興に乗ずれば塵紙《ちりがみ》にでも浅草紙にでも反古《ほご》の裏にでも竹の皮にでも折《おり》の蓋《ふた》にでも何にでも描いた。泥絵具は絹や鳥の子にはかえって調和しないで、悪紙粗材の方がかえって泥絵具の妙味を発揮した。


 この泥画について一笑話がある。ツイ二十年ほど前まで日本橋の海運橋の袂《たもと》に楢屋《ならや》という老舗《しにせ》の紙屋があった。この楢屋の主人はその頃マダ若かったが、先代からの江戸の通人で、文人墨客と広く交際していた。或時椿岳がフラリと来て、主人に向っていうには、俺の処へ画を頼みに来るものも多いが、紙ばっかりでトンと絹を持って来ない、どうだい、一つ絹に描かしてくれないかと。そんなら羽織の胴裏《どううら》にでも描いてもらいましょうと、楢屋の主人は早速白羽二重《しろはぶたえ》を取寄せて頼んだ。椿岳は常から弱輩のくせに通人顔する楢屋が気に入らなかった乎《か》、あるいは羽織の胴裏というのが癪《しゃく》に触《さわ》った乎して、例の泥絵具で一気呵成《いっきかせい》に地獄変相の図を描いた。頗《すこぶ》る見事な出来だったので楢屋の主人も大《おおい》に喜んで、早速この画を胴裏として羽織を仕立てて着ると、故意乎、偶然乎、膠《にかわ》が利《き》かなかったと見えて、絵具がベッタリ着物に附いてしまった。椿岳さんの画には最《も》う懲り懲りしたと、楢屋はその後椿岳の噂が出る度に頭を掻《か》き掻き苦笑した。

 


浅草絵と浅草人形


 椿岳のいわゆる浅草絵というは淡島堂のお堂守をしていた頃の徒然《つれづれ》のすさびで、大津絵《おおつえ》風の泥画である。多分又平の風流に倣ったのであろう。十二枚袋入がたった一朱であった。袋の文字は大河内侯の揮毫を当時の浅草区長の町田今輔が雕板《ちょうばん》したものだそうだ。慾も得もない書放しで、微塵《みじん》も匠気がないのが好事《こうず》の雅客に喜ばれて、浅草絵の名は忽ち好事家間に喧伝された。が、素人眼《しろうとめ》には下手《へた》で小汚《こぎた》なかったから、自然粗末に扱われて今日残ってるものは極めて稀《まれ》である。椿岳歿後、下岡蓮杖が浅草絵の名を継いで泥画を描いていたが、蓮杖のは椿岳の真似をしたばかりで椿岳の洒脱と筆力とを欠き、同じ浅草絵でも椿岳のとは似て非なるものであった。が、その蓮杖も二、三年前故人となって、浅草絵の名は今では全く絶えてしまった。


 椿岳の浅草人形というは向島《むこうじま》に隠棲《いんせい》してから後、第二博覧会の時、工芸館へ出品した伏見焼のような姉様《あねさま》や七福神の泥人形であって、一個二十五銭の札を附けた数十個が一つ残らず売れてしまった。伏見人形風の彩色の上からニスを塗ったのが如何にも生々《なまなま》しくて、椿岳の作としては余り感服出来ないものである。が、椿岳の奇名が鳴っていたから、椿岳の作といえば何でも風流がってこの人形もまた相応に評判されたもんだ。今でも時偶《ときたま》は残っていて、先年の椿岳展覧会にも二、三点見えたが、椿岳の作では一番感服出来ないものであった。尤もニスを塗った処が椿岳の自慢で、当時はやはり新らしかったのである。

 


椿岳の画料

 

 椿岳は画を売って糊口したのではなかった。貧乏しても画を売るを屑《いさぎよ》しとしなかった。浅草絵は浅草紙に泥絵具で描いたものにしろ、十二枚一と袋一朱ではナンボその頃でも絵具代の足しにもならなかったは明かである。


 その頃何処《どこ》かの洒落者《しゃれもの》の悪戯《いたずら》であろう、椿岳の潤筆料《じゅんぴつりょう》五厘以上と吹聴《ふいちょう》した。すると何処からか聞きつけて「伯父《おじ》さん、絵を描いておくれ」と五厘を持って来る児供があった。コイツ面白いと、恭《うやう》やしく五厘を奉書に包んで頼みに来る洒落者もあった。椿岳は喜んで受けて五厘の潤筆料のため絵具代を損するを何とも思わなかった。

 

 尤もその頃は今のような途方もない画料を払うものはなかった。随《したが》って相場をする根性で描く画家も、株を買う了簡《りょうけん》で描いてもらう依頼者もなかった。時勢が違うので強《あなが》ち直ちに気品の問題とする事は出来ないが、当時の文人や画家は今の小説家や美術家よりも遥《はる》かに利慾を超越していた。椿岳は晩年画かきの仲間入りをしていたが画かき根性を最も脱していた。

 

 

椿岳の作品
 が、画かき根性を脱していて、画料を貪《むさぼ》るような卑《さも》しい心が微塵もなかった代りに、製作慾もまた薄かったようだ。アレだけの筆力も造詣もありながら割合に大作に乏しいのは畢竟《ひっきょう》芸術慾が風流心に禍《わざわ》いされたのであろう。椿岳を大ならしめたのも風流心であるが、小ならしめたのもまた風流心であった。


 椿岳を応挙とか探幽《たんにゅう》とかいう巨匠と比較して芸術史上の位置を定めるは無用である。椿岳は画人として応挙や探幽と光を争うような巨人ではない。が、応挙や探幽の大作の全部を集めて捜しても決して発見されない椿岳独特の一線一画がある。椿岳には小さいながらも椿岳独自の領分があって、この領分は応挙や探幽のような巨匠がかつて一度も足を踏入れた事のない処女地であった。縦令《たとい》この地域は狭隘《きょうあい》であり磽※[#「石+角」、第3水準1-89-6]《こうかく》であっても厳として独立した一つの王国であった。椿岳は実にこの椿岳国という新らしい王国の主人であった。


 この椿岳国の第一の名産たる画はどんな作である乎、先年の椿岳展覧会は一部の好事家間に計画されたので、平生相知る間を集めて展観したのだから、この展覧会で椿岳の画の全部を知る事は出来なかったが、ほぼその画風を窺《うかが》う事は出来た。


 椿岳の画は大津絵でも鳥羽絵《とばえ》でもない、蕪村でも大雅でもない。尺寸の小幀《しょうてい》でも椿岳一個の生命を宿している。古人の先蹤《せんしょう》を追った歌舞伎十八番のようなものでも椿岳独自の個性が自《おの》ずから現われておる。多い作の中には不快の感じを与えられるものもあるが、この不快は椿岳自身の性癖が禍いする不快であって、因襲の追随から生ずる不快ではない。この瑜瑕《ゆか》並び蔽《おお》わない特有の個性のありのままを少しも飾らずに暴露《ぶちま》けた処に椿岳の画の尊さがある。


 椿岳の画は大抵小品小幀であって大作と見做《みな》すべきものが殆んどない。尤もその頃は今の展覧会向きのような大画幅を滅多に描くものはなかったが、殊に椿岳は画を風流とする心に累《わずらわ》せられて、寿命を縮めるような製作を嫌っていた。十日一水を画き五日一石を画くというような煩瑣《はんさ》な労作は椿岳は屑《いさぎよ》しとしなかったらしい。が、椿岳の画は書放しのように見えていても実は決して書放しではなかった。椿岳は一つの画を作るためには何枚も何枚も下画《したえ》を描いたので、死後の筐底《きょうてい》に残った無数の下画や粉本を見ても平素の細心の尋常でなかったのが解る。椿岳の画は大抵一気呵成であるが、椿岳の一気呵成には人の知らない多大の準備があったのだ。


 椿岳が第一回博覧会に出品した画は恐らく一生に一度の大作であろう。一体椿岳が博覧会に出品するというは奇妙に感ずるが、性来珍らし物好きであったから画名を売るよりは博覧会が珍らしかったのである。俺は貧乏人だから絹が買えないといって、寒冷紗《かんれいしゃ》の裏へ黄土を塗って地獄変相図を極彩色で描いた。尤も極彩色といっても泥画の小汚い極彩色で、ことさらに寒冷紗へ描いた処に椿岳独特のアイロニイが現れておる、この画は守田宝丹が買ったはずだから、今でも宝丹の家蔵になってるわけだが、地震の火事でどうなった乎。池《いけ》の端《はた》にあったならこの椿岳の一世一代の画も大方焼けてしまったろう。


 第二回だか第三回だかの博覧会にも橋弁慶を出品して進歩二等賞の銅牌を受領した。この画は今何処《どこ》にあるか、所有者が不明である。元来椿岳というような旋毛曲《つむじまが》りが今なら帝展に等しい博覧会へ出品して賞牌を貰《もら》うというは少し滑稽《こっけい》の感があるが、これについて面白い咄《はなし》がある。丁度賞牌を貰って帰って来た時、下岡蓮杖が来合わした。こんなものよりか金の一両も貰った方が宜《よ》かったと、椿岳がいうと、そんなら一両で買いましょうと、一円出して蓮杖は銅牌を貰って帰った。橋弁慶の行衛《ゆくえ》は不明であるが、この弁慶が分捕《ぶんど》りした銅牌は今でも蓮杖の家に残ってるはずだが、これも多分地震でどうかしてしまったろう。


 今戸の大河内家には椿岳に似つかわしい奇妙な大作があった。大河内家の先代輝音侯《きおんこう》というは頗る風流の貴族で常に文墨の士を近づけた。就中《なかんずく》、椿岳の恬淡《てんたん》洒落を愛して方外の友を以て遇していた。この大河内家の客座敷から横手に見える羽目板《はめいた》が目触《めざわ》りだというので、椿岳は工風をして廂《ひさし》を少し突出《つきだ》して、羽目板へ直接《じか》にパノラマ風に天人の画を描いた。椿岳独特の奇才はこういう処に発揮された。この天人の画は椿岳の名物の一つに数えられていたが、惜しい哉《かな》羽目板だから破損したかあるいは雨晒《あまざら》しになって散三《さんざん》になってしまったろう。幸い無事に保存されていても今戸は震害地だったから地震の火事で焼けてしまったろう。


 椿岳は晩年には『徒然草』を好んで、しばしば『徒然草』を画題とした。堀田伯爵のために描いた『徒然草』の貼交《はりま》ぜ屏風《びょうぶ》一双は椿岳晩年の作として傑作の中に数うべきものであって、その下画らしいものが先年の椿岳展覧会にも二、三枚見えた。依田学海翁の漢文の椿岳伝が屏風の裏に貼《は》ってあったそうだが、学海の椿岳伝は『譚海《たんかい》』の中にも載っていない。定めし椿岳の面目を躍如たらしめた奇文であったろうと思う。が、伯爵邸は地震の中心の本所であったから、屏風その物からして多分焼けてしまったろうし、学海の逸文もまた失われてしまったろう。

 


円福寺の椿岳の画


 椿岳の大作ともいうべきは牛込の円福寺の本堂の格天井《ごうてんじょう》の蟠龍《はんりょう》の図である。円福寺というは紅葉の旧棲たる横寺町の、本《も》との芸術座の直ぐ傍の日蓮宗《にちれんしゅう》の寺である。この寺の先々住の日照というが椿岳の岳母榎本氏の出であったので、俗縁の関係上、明治十七、八年ごろ本堂が落成した時、椿岳は頼まれて本堂の格天井の画を描いた。


 椿岳はこの依頼を受けると殆んど毎日東京の諸寺を駈巡《かけめぐ》って格天井の蟠龍を見て歩いた。いよいよ着手してから描き終るまでは誰にも会わないで、この画のために亡師椿年から譲られた応挙伝来の秘蔵の大明墨《たいみんぼく》を使用し尽してしまったそうだ。椿岳が一生の大作として如何にこの画に精神を注いだかは想像するに余りがある。幸いこの画は地震の禍いをも受けずに今なお残っているが、画が画だからマジメに伝統の法則を守った作で、椿岳独自の画境を見る事は出来ない。が、椿岳の画の深い根柢や豪健な筆力を窺《うかが》う事が出来る大作である。


 この本堂の内陣の土蔵の扉《とびら》にも椿岳の麒麟《きりん》と鳳凰《ほうおう》の画があったそうだが、惜しい哉《かな》、十数年前修繕の際に取毀《とりこぼ》たれてしまった。


 円福寺の方丈の書院の床の間には光琳《こうりん》風の大浪《おおなみ》、四壁の欄間《らんま》には林間の羅漢《らかん》の百態が描かれている。いずれも椿岳の大作に数うべきものの一つであるが、就中大浪は柱の外、框《かまち》の外までも奔浪畳波が滔《あふ》れて椿岳流の放胆な筆力が十分に現われておる。


 円福寺に伝うる椿岳の諸作の中で最も見るべきものは方丈の二階の一室の九尺二枚の大襖《おおぶすま》である。図は四条の河原の涼みであって、仲居《なかい》と舞子に囲繞《とりま》かれつつ歓楽に興ずる一団を中心として幾多の遠近《おちこち》の涼み台の群れを模糊《もこ》として描き、京の夏の夜の夢のような歓楽の軟《やわら》かい気分を全幅に漲《みなぎ》らしておる。が、惜しい哉、十年前一見した時既に雨漏《あまもり》や鼠《ねずみ》のための汚損が甚だしくして見る影もなかった。当時案内の雛僧《すうそう》を通じて補修して大切に保存すべき由を住職に伝えたが、今はドウなったか知らん。


 円福寺の画にはいずれも落款がないので椿岳の作たるを忘れられておる。椿岳の洒々落々たる画名を市《う》るの鄙心《ひしん》がなかったのはこれを以ても知るべきである。が、落款があっても淡島椿岳が如何なる画人であるかを知るものは極めて少なく、縦令《たとい》名を知っていても芸術的価値を認むるものが更にいよいよ少ないのだから、円福寺に限らず、ドコにあっても椿岳の画は粗末に扱われて児供《こども》の翫弄《おもちゃ》となり鼠の巣となって亡びてしまったのがかなり多いだろう。


 が、椿岳の画は大津絵や絵馬のように単なる趣味一遍で鑑賞すべきものではない。僅《わずか》に数筆を塗抹《とまつ》した泥画の寸紙の中にも芸衛的詩趣が横溢《おういつ》している。造詣の深さと創造の力とは誠に近世に双《なら》びない妙手であった。

十二 終焉及び内外人の椿岳蒐集熱

 椿岳は余り旅行しなかった。晩年大河内子爵のお伴《とも》をして俗に柘植黙《つげもく》で通ってる千家《せんけ》の茶人と、同気相求める三人の変物揃《ぞろ》いで東海道を膝栗毛《ひざくりげ》の気散じな旅をした。天龍まで来ると川留《かわどめ》で、半分落ちた橋の上で座禅をしたのが椿岳の最後の奇の吐きじまいであった。


 臨終は明治二十二年九月二十一日であった。牛島の梵雲庵に病んでいよいよ最後の息を引取ろうとするや、呵々大笑《かかたいしょう》して口吟《くちずさ》んで曰《いわ》く、「今まではさまざまの事して見たが、死んで見るのはこれが初めて」と。六十七歳で眠るが如く大往生を遂げた。天王寺墓域内、「吉梵法師」と勒《ろく》された墓石は今なお飄々《ひょうひょう》たる洒脱の風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ふうぼう》を語っておる。


 椿岳は生前画名よりは奇人で聞えていた。一風変った画を描くのは誰にも知られていたが、極彩色の土佐画や花やかな四条派やあるいは溌墨淋漓《はつぼくりんり》たる南宗画《なんしゅうが》でなければ気に入らなかった当時の大多数の美術愛好者には大津絵風の椿岳の泥画は余り喜ばれなかった。椿岳の画を愛好する少数好事家《こうずか》ですらが丁度朝顔や万年青《おもと》の変り種を珍らしがると同じ心持で芸術のハイブリッドとしての椿岳の奇の半面を鑑賞したに過ぎなかったのだ。


 椿岳の画が俄に管待《もては》やされ初《だ》して市価を生じたのはマダ漸《ようや》く十年かそこらである。その市価を生じた直接の原因は、商売人の咄《はなし》に由《よ》るとやはり外国人が頻《しき》りに感嘆して買出したからであるそうだ。日本人はいつでも外国人に率先される。写楽《しゃらく》も歌麿《うたまろ》も国政《くにまさ》も春信《はるのぶ》も外国人が買出してから騒ぎ出した。外国人が褒《ほ》めなかったなら、あるいは褒めても高い価を払わなかったなら、古い錦絵は既《とっ》くの昔し張抜物《はりぬきもの》や、屏風や襖の下張《したはり》乃至《ないし》は乾物《かんぶつ》の袋にでもなって、今頃は一枚残らず失《な》くなってしまったろう。少くも貧乏な好事家《こうずか》に珍重《ちんちょう》されるだけで、精々《せいぜい》が黄表紙《きびょうし》並に扱われる位なもんだろう。今でこそ写楽々々と猫も杓子《しゃくし》も我が物顔に感嘆するが、外国人が折紙を附けるまでは日本人はかなりな浮世絵好きでも写楽の写の字も知らなかったものだ。その通りに椿岳の画も外国人が買出してから俄に市価を生じ、日本人はあたかも魔術者の杖が石を化して金とするを驚異する如くに眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って忽ち椿岳蒐集《しゅうしゅう》熱を長じた。


 因襲を知るものは勢い因襲に俘《とら》われる。日本人は画の理解があればあるほど狩野《かのう》派とか四条派とか南宗とか北宗とかの在来の各派の画風に規矩《きく》され、雪舟《せっしゅう》とか光琳《こうりん》とか文晁《ぶんちょう》とか容斎《ようさい》とかいう昔しの巨匠の作に泥《なず》んだ眼で杓子定規に鑑賞するから、偶々《たまたま》芸術上のハイブリッドを発見しても容易に芸術的価値を与えようとしない。外国人は因襲を知らないから少しも因襲に累《わずら》わされないで、自己の鑑賞力の認めるままに直ちに芸術的価値を定める。この通弊は単に画のみの問題でなく、また独《ひと》り日本ばかりの問題でもない。総《すべ》ての公平な判断や真実の批評は常に民族的因襲や国民的偏見に累わされない外国人から聞かされる。就中、芸術の真価が外国人の批評で確定される場合の多いは啻《ただ》に日本の錦絵ばかりではないのだ。


 二十年前までは椿岳の旧廬《きゅうろ》たる梵雲庵の画房の戸棚の隅には椿岳の遺作が薦縄搦《こもなわから》げとなっていた。余り沢山あるので椽《えん》の下に投《ほう》り込まれていたものもあった。寒月の咄に由ると、くれろというものには誰にでも与《や》ったが、余り沢山あったので与り切れず、その頃は欲しがるものもまた余りなかったそうだ。ところが椿岳の市価が出ると忽ちバッチラがいで持ってってしまって、梵雲庵には書捨ての反古《ほご》すら残らなかった。椿岳から何代目かの淡島堂のお堂守は椿岳の相場が高くなったと聞いて、一枚ぐらいはドコかに貼《は》ってありそうなもんだと、お堂の壁張《かべばり》を残る隈《くま》なく引剥《ひきは》がして見たが、とうとう一枚も発見されなかったそうだ。


 だが、椿岳の市価は西洋人が買出してから俄に高くなったのだが、それより以前に椿岳の画の価値を認めたものが日本人にまるきりないわけではなかった。洋画界の長老長原止水《ながはらしすい》の如きは最も早くから椿岳を随喜した一人であった。ツイ昨年易簀《えきさく》した洋画界の羅馬《ローマ》法王たる黒田清輝《くろだせいき》や好事《こうず》の聞え高い前の暹羅《シャム》公使の松方正作《まつかたしょうさく》の如きもまた早くから椿岳を蒐集していた。が、椿岳の感嘆者また蒐集家としては以上の数氏よりも遅れているが、最も熱心に蒐集したのは銀座の天※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]居《てんいんきょ》であった。天※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]居といっては誰も余り知るまいが、天金といったら東京の名物の一つとしてお上《のぼ》りさんの赤ゲットにも知られてる旗亭《きてい》の主人である。天※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]居は風雅の好事家で、珍書稀本書画骨董の蒐集家として聞えているが、近年殊に椿岳に傾倒して天※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]居の買占《かいしめ》が椿岳の相場を狂わして俄に騰貴したといわれるほど金に糸目を附けないで集めたもんで、瞬《またた》く間に百数十幅以上を蒐集した。啻《た》だ数量ばかりでなく優品をも収得したので、天※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]居は追《おっ》ては蒐集した椿岳の画集を出版する計画があったが、この計画が実現されない中に、惜《おし》い哉《かな》、この比類のない蒐集は大震災で烏有《うゆう》に帰した。天※[#「竹かんむり/(土へん+鈞のつくり)」、第3水準1-89-63]居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒《わか》った椿岳の画短冊は劫火《ごうか》の中から辛《かろ》うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。


 が、椿岳の最も勝《すぐ》れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町《したまち》に所蔵されていたから、大抵震火に亡びてしまったろうと想像されるが、椿岳独特の画境は大作よりはむしろ尺寸の小幀に発揮されてるから、再び展覧会が開かれたら意外の名幅がドコからか現れるかも知れない。かつ高価を支払われて外国へ流出したものも沢山あるらしいから、追付《おっつ》けクルトやズッコのお仲間《なかま》が日本人の余り知らない傑作の複製を挿図した椿岳画伝を出版して欧洲読画界を動揺する事がないとも限られない。「俺の画は死ねば値が出る」と傲語《ごうご》した椿岳は苔下《たいか》に会心の微笑を湛《たた》えつつ、「そウら見さっしゃい、印象派の表現派のとゴテ付いてるが、ゴークやセザンヌは疾《と》っくに俺がやってる哩」とでも脂下《やにさが》ってるだろう。

(大正十四年三月補訂)

底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷発行
   2008(平成20)年7月10日第3刷
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
   1925(大正14)年6月初版発行
初出:「きのふけふ」博文館
   1916(大正5)年3月
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

浅草文庫 - 内田魯庵 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」

内田魯庵|浅草文庫
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