top of page

見世物 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

 外の通りに末弘を待たせて私はアパートへ行き、戻ると末弘は同じ火事見物の帰りらしい背の低い老人と立ち話をしていた。私を見ると、末弘はそのひどく見すぼらしい恰好をした男と別れ、私たちは国際通りを、国際劇場の方へ向けて歩き出した。

「おたくは昔の浅草をご存じで?」と末弘が言った。「今のおッつぁんは、天中軒トコトンですよ。昔、江川の玉乗りで鳴らした……」

 私は子供の時分、江川の玉乗りか青木の玉乗りか、どっちかわからぬが一度見た記憶はあるが、芸人の名前は覚えてない。

「とッても鳴らしたもんらしいが、今はもう駄目で……」

 では、今は何をやっているのかと聞くと、今でも玉乗りをやっている、頑強に玉乗りを守っていて、一家揃って玉乗りをやっているという返事。玉乗りなんて今でもあるのかとちょっと魂消て聞くと、「まあ、たまに寄席やお座敷の仕事なんかがね。普段はもっぱら紙袋貼り、――朝早くから夜おそくまで、トコトンさんを初めとして、かみさんに息子、娘、一家総動員でエッサエッサと紙を貼ってまさア」ふーん、気の毒にねと私が言うと「それが、――気の毒なわけではないんですよ。トコトンさんは金をゴマンと蓄め込んでいるんですからね」そして困っている芸人などには、ほんとうの親切心で、金を貸し与えたりしているという。その義侠心で、苦境を救われた芸人はたくさんいるとのこと。末弘はつづけて語るのだった。――変ったおッつぁんです。さっきだって、ボロボロの綿入れを着ていたでしょう。寝間着だから、ひどいものを着ているというんじゃねんで、普段だってまるで乞食みたいな恰好をしているんです。一家揃ってそうなんで。娘さんなんかもひどい着物をきていて、そいで一向平気で、そこらを歩いていて、「惚太郎」へもそのなりで、うどん粉の残りを貰いにくるもんだから、知らない客などは乞食の娘とよく間違えるんです。――うどん粉は、紙袋貼りの糊に使うんですよ。入れものの底に、うどん粉が残るでしょう。それを「惚太郎」のかみさんが、随分面倒だろうけどトコトンさんのためにというわけで取っておいて、娘さんが毎日貰いにくるのに、やっているんですわ。そんなにして、紙を貼って、この間もそれでためた金を五十円も献納したですよ。





Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page