隅田川・大川 - 「狂言の神」 太宰治 1936(昭和11)年10月
- 浅草文庫
- 2019年7月25日
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あああ。今夜はじつに愉快であった。大川へはいろうか。線路へ飛び込もうか。薬品を用いようか。新内と商人と、ふたりの生活人に自信を与えた善根によっても、地獄に堕ちるうれいはない。しずかな往生ができそうである。けれども、わが身が円タク拾って荻窪の自宅へ易々とかえれるような状態に在るうちは、心もにぶって、なかなか死ねまい。とにかく東京から一歩でも、半歩でもなんでも外へ出る。何卒して、今夜のうちに、とりかえしのつかないところまで行ってしまって置かなければ。よこはまほんもく二円はどうだ。いやならやめろ。二円おんの字、承知のすけ。ぶんぶん言って疾進してゆく、自動車の奥隅で、あっ、あっと声を放って泣いていた。今は亡き、畏友、笠井一もへったくれもなし。ことごとく、私、太宰治ひとりの身のうえである。いまにいたって、よけいの道具だてはせぬことだ。私は、あした死ぬるのである。

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