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伝法院・見世物 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

 その頃椿岳はモウ世間の名利を思切った顔をしていたが、油会所の手代時代の算盤気分がマダ抜けなかったと見えて、世間を驚かしてやろうという道楽五分に慾得五分の算盤玉を弾き込んで一と山当てるツモリの商売気が十分あった。その頃どこかの気紛れの外国人がジオラマの古物を横浜に持って来たのを椿岳は早速買込んで、唯我教信と相談して伝法院の庭続きの茶畑を拓き、西洋型の船に擬えた大きな小屋を建て、舷側の明り窓から西洋の景色や戦争の油画を覗かせるという趣向の見世物を拵え、那破烈翁や羅馬法王の油画肖像を看板として西洋覗眼鏡という名で人気を煽った。


 何しろ明治二、三年頃、江漢系統の洋画家ですら西洋の新聞画をだも碌々見たものが少なかった時代だから、忽ち東京中の大評判となって、当時の新らし物好きの文明開化人を初め大官貴紳までが見物に来た。人気の盛んなのは今日の帝展どころでなかった。油画の元祖の川上冬崖は有繋に名称を知っていて、片仮名で「ダイオラマ」と看板を書いてくれた。泰山前に頽るるともビクともしない大西郷どんさえも評判に釣込まれてワザワザ見物に来て、大に感服して「万国一覧」という大字の扁額を揮ってくれた。こういう大官や名家の折紙が附いたので益々人気を湧かして、浅草の西洋覗眼鏡を見ないものは文明開化人でないようにいわれ、我も我もと毎日見物の山をなして椿岳は一挙に三千円から儲けたそうだ。




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