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吾妻橋・関東大震災 - 「棺桶の花嫁」 海野十三 1937(昭和12)年1-3月

 所は焼け落ちた吾妻橋の上だった。  まるで轢死人の両断した胴中の切れ目と切れ目の間を臓腑がねじれ会いながら橋渡しをしているとでもいいたいほど不様な橋の有様だった。十三日目を迎えたけれど、この不様な有様にはさして変りもなく、只その橋桁の上に狭い板が二本ずっと渡してあって、その上を危かしい人通りが、いくぶんか賑やかになっているだけの違いだった。

 杜は人妻お千を伴って、この橋を浅草の方から本所の方へ渡っていた。なにしろ足を載せる板幅がたいへん狭く、その上ところどころに寸の足りないところがあって、躍り越えでもしないと前進ができなかった。杜は肥り肉の凡そこうした活溌な運動には経験のないお千に、この危かしい橋渡りをやらせるのにかなり骨を折らねばならなかった。 「さあ、この手につかまって——」  と、杜が手を差出しても、お千はモジモジして板の端にふるえているという始末だった。そのうちに彼女は、水中に飴のように曲って落ちこんだ橋梁の間から下を見て、まだそこにプカプカしている土左衛門や、橋の礎石の空処に全身真赤に焼け爛れて死んでいる惨死者の死体を見るのであった。すると両足がすくんでしまって、もう一歩も前進ができず、ただもうブルブルと慄えながら、太い鉄管にかじりつく外なかった。



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関東大震災・吉原遊郭(新吉原)・凌雲閣(浅草十二階) - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

震災の当日、その時びっくりして戸外に飛び出した私の目に、八階から上が折れてなくなった、浅草公園の十二階の無慙な姿が映った。私の家は吉原遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく見えた。  その日、私の一家はみんなばらばらになった。私と花やという女中が上野

火事・大火・関東大震災・吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

聞くところによると、明治四十三年の夏の水害と翌年春の大火とは、吉原とその界隈の町の有様を一変させたと云うが、私はちょうどその大火のあった年の秋に生れた。物心がついてまもなくあの大震災があった。震災は私たち東京人の生活に一時期を画したが、私としても自分の少年の日は震災と共に失われ

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