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本龍院(待乳山聖天) - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 読者よ、わずかな間でいい、わたしと一緒に待乳山へ上っていただきたい。  そこに、まずわたしたちは、かつてのあの「額堂」のかげの失われたのを淋しく見出すであろう。つぎに、わたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫火に焦げたままのあさましいその肌を日にさらし、雨にうたせているのを心細く見出すであろう。そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした木立の間から山谷堀の方をみるのがいい。――むかしながらの、お歯黒のように澱んだ古い掘割の水のいろ。――が、それにつづいた慶養寺の墓地を越して、つつぬけに、そのまま遠く、折からの曇った空の下に千住のガスタンクのはる/″\うち霞んでみえるむなしさをわたしたちは何とみたらいいだろう?――眼を遮るものといってはただ、その慶養寺の境内の不思議に焼け残った小さな鐘楼と、もえ立つような色の銀杏の梢と、工事をいそいでいる山谷堀小学校の建築塔と……強いていってそれだけである。




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本龍院(待乳山聖天) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思いの種子を蒔く、若木の蕾は誘う風さえあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いずれ月見には恰好の場所に宵より待ちあ

本龍院(待乳山聖天) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

正月は三ヶ日が江戸ッ児の最も真面目なるべき時だ。かれらは元日の黎明に若水汲んで含嗽し、衣を改めて芝浦、愛宕山、九段、上野、待乳山などに初日の出を拝し、帰来屠蘇雑煮餅を祝うて、更に恵方詣をなす、亀戸天神、深川八幡、日枝神社、湯島天神、神田明神などはその主なるものである。

浅草寺(浅草観音)・本龍院(待乳山聖天) - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

岸へ上った辺は花川戸といいました。少し行くと浅草聖天町です。待乳山の曲りくねった坂を登った上に聖天様の社があって、桜の木の下に碑があります。また狭い坂を下りると間もなく、観音様の横手の門へ出ます。  その辺にはお数珠屋が並んでいたようです。まず第一にお参りをしようとお母様にいわ

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