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「浅草とは?」・仲見世 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

更新日:2018年10月2日

 角、「たつみ食堂」と称するもののいまあるところに「梅園館」という勧工場があった。――そこを「仲見世」へ出たわたしは、そのまま左へ仁王門のほうへ道をとった。その時分からあったのがいまの「大増」の手まえを木深くおくへ入った「大橋写真館」である。「大増」のところには、その時分、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた「万梅」があった。……とだけでは何のこともない、いまも立ならぶ大きなあの榎のかげに、手堅い、つつましい、謙遜な、いえばおのずからそれが江戸まえのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとをみせていた。そこの石だたみだけつねにしぐれた感じだった。――ことにはそこに、その榎の下に、いつも秋早くから焼栗の定見世の出ることが、虧けそめた月の、夜長夜寒のおもいを一層ふかからしめた。――「仲見世」というところはときにそうした景情をもつところだった。




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