top of page

「浅草とは?」 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢竟この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。

 ――改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町――田町から山谷……「吉原」の廓に近いそれらの町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。

 田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、「仲見世」をふくむ「公園」のほとんどすべて、新谷町から千束町象潟町にかけての広い意味での「公園裏」……蔓のように伸び、花びらのように密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てらさた。

 ……「池のまわりの見世物小屋」こそいまのその「新しい浅草」あるいは「これからの浅草」の中心である……

 が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一トたび焦土に化したのである。ともに五年まえみじめな焼野原になったのである。――というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえによみ返ったそれらである。ふたたび生れいでそれである。――しかも、あとのものにとって、かつてのそのわざわいは何のさまたげにもならなかった。それ以前にもましてだん/\成長した。あらたな繁栄はそれに伴う輝かな「感謝」と「希望」とを、どんな「横町」でもの、どんな「露地」でものすみ/″\にまで行渡らせた。――いえば、いままで、「広小路」を描きつつ、「仲見世」に筆をやりつつ、「震災」の二字のあまりに不必要なことをひそかにわたしは驚いたのである……




Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page