浅草から遠ざかっていること何日くらいであったろうか。私のうちにようやく浅草に対する一種の郷愁的感情が鬱積してきた。またぞろ浅草へ行きたくなった。それは初めは、なんとなく浅草へ行きたいなアといった漠然とした想いだったが、それがやがて、浅草へ行ってああもしたい、こうもしたいといった具体的な欲望へと進んで行った。それは異郷に身を置いた人が、たとえば、――パリパリと音のする快い歯応えの沢庵でお茶漬をひとつさらさらッと食いたいなといった欲望のうちに、ノスタルジアの具体的なものを感ずるのに似ていたが、しかし私にとって浅草は逆に外国なわけであるから、ヘンな工合である。すなわち郷愁というよりやはり憧憬というべきであるかもしれぬ。けれど気持としては、憧憬というより郷愁というのにずっと似たものなのであった。
top of page
bottom of page
Comments