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「浅草とは?」・浅草の食 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

 ――泡盛屋はスタンドの前に五六人並ぶといっぱいになる狭い店で、肥った婆さんがひとりでやっていた。娘を映画俳優に嫁がせていて、この婿は今はまるで不遇だが、もとはちょっと売り出しかけたことがあり、そんな関係からか、高田稔などから贈られた、でも今はすっかり色の褪せた暖簾がかかっていた。店の客も公園の小屋の関係のものが多かった。そこは、生粋の琉球の泡盛を売っていて、出港税納付済――那覇税務所という紙のついた瓶が、いくつも入口に転がっていた。浅草の連中は、インチキな酒類を平気で楽しんで飲むが、それは騙されて飲むのではなく、インチキと承知の上のことで、だから泡盛のほんもの、うそなどということの舌での鑑定にかけては、商売人はだしである。朝野がその一人であった。朝野は、婆さんと「来たぞ」「おや、騒々しいのが来た」といった口をきき合うなじみであった。婆さんは、それが商売上手の口なのだろうが、まるで客扱いなどしないぞんざいな口をきいた。





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