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浅草の食・仲見世 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 が、それはひとりその往来ばかりでなかった。「仲見世」のもつ横町のすべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、いま角に「音羽」という安料理屋のある横町、つぎの、以前「天勇」の横町といった、角に「金竜軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いまその角に「梅園」のある横町、右へとんで蕎麦屋の「万屋」の横町。――それらの往来すべてがつい十四、五年まえまで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちにわかれ/\、お互が何のかかわりも持たず、長い年月それでずっとすごして来たのである。――そのうち「金竜軒」の横町だけは、「若竹」だの、「花家」だの、「みやこ」だのといった風の小料理がいろ/\出来、それには「ちんや横町」を横切って「区役所横町」までその往来の伸びている強味がそこをどこよりも早く「仲見世」と手を握らせた。でも、そこに、いまはどこへ行ってもあんまりみかけない稼業の刷毛屋があり、その隣にねぼけたような床屋があり、その一、二けん隣に長唄の師匠があって疳高い三味線の音をその灰いろの道のうえに響かせていたのを昨日のことのようにまだわたしは覚えている。――後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた店である。――その時分、浅草には、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭」以外西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも見出すことが出来なかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなし恰好のしもたやばかり並んでいた。正月の夜の心細い寒行の鉦の音がいまでもわたしをその往来へさそうのである。――「梅園」の横町については嘗てはそこに「凧や」のあったことを覚えている。よく晴れた師走の空がいまでもわたしにその往来の霜柱をおもわせる。――ともにけしきは「冬」である。




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