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浅草の食・仲見世 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 いまわたしが昔ながら(わたしにとってはそうである)の「仲見世」を通って感じることは絵草紙屋のすくなくなったことである。(そのなかで最も大きかった清水屋……伊藤君のその店にしていまでは「中央公論」「改造」の二、三百ずつもさばく書店になってしまったのである)豆屋、紅梅焼屋の以前のように目につかなくなったことである。(数のうえでも豆屋は絵草紙屋とともにすくなくなった)「木村屋」を真似た名所焼の店のほう/″\に出来たことである。――そうして「武蔵屋」が衰え「伊藤勘」のさかえたことである……

 由来そこは外のほう/″\の霊場がもつようなことさらな「名物」はもっていなかった。「煎豆」があり、「紅梅焼」があり「雷おこし」があったといっても、それらは直接「観音さま」に関連する何ものも持たなかった。それはただ「仲見世」あるいは「雷門」附近をえらんで店舗をもったにすぎなかった。――と、たま/\パン屋の「木村屋」あって「名所焼」を売りはじめた。――わたしの記憶にもしやあやまりがなければ、いまから十五、六年まえのことである……




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