浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月
- 浅草文庫
- 2018年10月1日
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更新日:2019年7月17日
これらのうち、草津、一直、松島、大増、新玉、及び、竹松、須賀野、みまき等は、芸妓の顔をみるため、乃至、芸妓とゝもに莫迦騒ぎをするために存在してゐるうちである。宴会でもないかぎり、われわれには一向用のないところである。
往年、五軒茶屋の名によつて呼ばれたうち、草津、一直、松島の三軒は右の通り、万梅は四五年まへに商売をやめ、今では、わづかに、大金だけが、古い浅草のみやびと落ちつきとを見せてゐる。
座敷のきどり、客あつかひ。――女中が結城より着ないゆかしさがすべてに行渡つてゐる。つくね、ごまず、やきつけ、やまとあげ、夏ならば、ひやしどり、いつも定つてゐる献立も、どこか、大まかな、徒らに巧緻を弄してゐないところがいゝ。――われ/\浅草に住む人間の、外土地の人の前に自信をもつて持出すことの出来るのは、このうちと金田とだけである。

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