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浅草の食 - 「浅草の喰べもの」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

 伊豆栄は、吾妻橋の際のもとの伊豆熊のあとである、今でも、ときに伊豆熊の名によつて呼ばれる。それほど売込んだ伊豆熊といふ名である。が、これは、格別、いさくさのないごくあたりまへの、入れごみ鰻屋である。

 わたくしの子供の時分、田原町の、いま川崎銀行のある角に、鰻をさきながら焼いてゐる小さなな床見世があつた。四十がらみの、相撲でもとりさうに肥つた主人が、二人の、年ごろの娘たちと、十三四になる悪戯な男の子とを相手に商売をしてゐた。外に、みるから気の強さうな、坊主頭の、その子供たちにおぢいさんと呼ばれてゐる老人がゐたが、そのうち、鰻屋をよして、広小路に、夜、天麩羅の屋台を出すやうになつた。種のいゝものを使ふのと、阿漕に高い銭をとるのとで、わづかなうちに仕出し、間もなく、今度は、伝法院横町の、待合のあとに入つて店を出した。――それがいまの中清である。

 うまいからいゝといへばそれまで、こゝのうち、あまりにすべてが無作法すぎる。――座敷の汚さ、器具の悪さ、女中の無精つたらしさ。――いかな贔屓眼を以てしてもわれ/\には折合へない。




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