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浅草オペラ・レビュー - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

 細長い部屋の両側に、鏡台がずらりと並べてあって、多くは小さな卵形の赤い鏡台だった。北向きの片側は窓になっていて、そこから乏しいながら明りが入ってはくるのだが、鏡台の上の方にこれまたずらりと、商店街の街灯のように電灯が並んでいる。電灯で暖を取るという話を前回に書いたが、その部屋の複雑な臭いを含んだムッとしたうん気には、そうした電灯の熱がすくなからぬ作用を持っているように感じられた。そうしてその電灯の上には、たしかに物干用と見られる紐が回してあって、洗濯した靴下、多くは最近流行の私の嫌いなあの人参色のもの、それに鼠色した下着といったものが掛けてあるが、電気の熱でもって乾かすのであろう。


 そうした干しもの風景を語っただけですでに、その部屋の薄穢いなまめかしさは容易に想像されるだろうが、さて眼を鏡台の下に転ずるならば、へりのない赤ちゃけた畳には、垢じみた寝巻を丸めたのや、稽古着に稽古靴を一緒にしたのや、顔ふきのタオル等々が四散していて、たとえば不精な女の汚れものでもなんでもかまわずつめ込んだ押入れをのぞいたみたいな感じで、なまめかしさより薄穢さの方が強く眼に迫るのである。こう書くと、いかにも幻滅的な印象を伝えるのに努めているようであるが、しかしそこは、年若い踊り子たちが昼間はもとよりずっといるのだし、夜も大概は泊るのだから、ほとんど四六時中生活している場所である。したがって、穢いことは穢くても、その穢さのなかには、夢みがちな年頃の女たちが、できうるかぎりそこを楽しい生活の場所にしようとしている悲しくはかない努力が見られ、それは穢い印象を随分と相殺しているのである。たとえば壁には、牡丹刷毛のかわりの、これはまた見るからに色気のない楕円形のスポンジがつるしてある横に、――映画雑誌から切り抜いたらしい美男の外国俳優の写真が貼り付けてあり、たまには、こっちも女性のくせに美しい映画女優の顔も貼ってある。そして鏡台の横には、紅筆の立ててある脇に、小さなお人形とか、ファンから貰ったかあるいは貰った感じのなになにさん江と書いた可愛い薬玉とか、その他少女の好みそうな小さな玩具が、いかにも大事そうに置いてある。そこだけ見れば、――それぞれの少女たちがその狭い場所で、精一杯楽しい生活を築こうとしている、その可憐な美しさが、見た眼を打たずにはいないのである。


 かくて私はそこの薄穢さに決して眉を寄せることはしなかった。といって、なまめかしさにひそかにニヤついたのでもなかった。私は何かもの悲しい気持になっていた。





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