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浅草六区 - 「手品師」 久米正雄 1916(大正5)年4月

 浅草公園で二三の興行物を経営してゐる株式会社『月世界』の事務所には、専務取締役の重役がいつもの通り午前十時十五分前に晴々しい顔をして出て来た。美しく霽れ上つた秋の朝で、窓から覗くと隣りのみかど座の前にはもう二十人近くの見物人が開館を待つてゐる。重役はずつとそれらを見渡して、満足さうに空を仰いだ。すぐ前にキネマ館が白い壁を聳ててゐるので、夜前の雨に拭はれ切つた空が、狭く細い一部分しか見えない。併し重役はそこから輝き落ちる青藍の光芒をぢつと見やつて眼をしばたゝいた。

「いゝ天気ですね。此分ぢや今日は嘸込むでせう。」傍の事務員が話しかけた。 「天気商売をしてゐると初めて太陽様の有難味がわかる。」重役は窓から身を引き乍らそれに答へた。そして其時自分にお辞儀をしかけた若い座附作者を眺めて、「君なぞはまだ解るまいが、浅草は天気模様によつてすぐ百二百は違ふんだからね。」 「何しろ今日の日曜は満員でせうな。」とその作者はまだ学生の癖のとれない抑揚で気軽に云つた。



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