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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

「手品師」

久米正雄 1916(大正5)年4月

 浅草公園で二三の興行物を経営してゐる株式会社『月世界』の事務所には、専務取締役の重役がいつもの通り午前十時十五分前に晴々しい顔をして出て来た。美しく霽《は》れ上つた秋の朝で、窓から覗《のぞ》くと隣りのみかど座の前にはもう二十人近くの見物人が開館を待つてゐる。重役はずつとそれらを見渡して、満足さうに空を仰いだ。すぐ前にキネマ館が白い壁を聳《そばだ》ててゐるので、夜前の雨に拭《ぬぐ》はれ切つた空が、狭く細い一部分しか見えない。併《しか》し重役はそこから輝き落ちる青藍の光芒《くわうばう》をぢつと見やつて眼をしばたゝいた。


「いゝ天気ですね。此《この》分ぢや今日は嘸《さぞ》込むでせう。」傍の事務員が話しかけた。
「天気商売をしてゐると初めて太陽《てんたう》様の有難味《ありがたみ》がわかる。」重役は窓から身を引き乍《なが》らそれに答へた。そして其《その》時自分にお辞儀をしかけた若い座附作者を眺《なが》めて、「君なぞはまだ解るまいが、浅草《こゝ》は天気模様によつてすぐ百二百は違ふんだからね。」
「何しろ今日の日曜は満員でせうな。」とその作者はまだ学生の癖のとれない抑揚で気軽に云つた。
「うむさう/\、君を褒《ほ》めようと思つてゐた処《ところ》だ。」と重役は若い人を奨励する時に誰でもするやうな表情で云つた。「今朝湯の中でうちの小屋の評判を聞いたよ。何でも君の今度の連鎖劇が大変受けてゐるらしい。」
「有難い仕合《しあはせ》です。」作者は妙に苦笑し乍ら云つた。「これからも精々いゝ種を仕入れるとしませう。」

 

 此の作者は今年大学を出た許《ばか》りであつた。そして単に食ふことの必要上此処《こゝ》に入つて匿名で連鎖劇を書いてゐた。彼には一人で高級な創作をしてゆくだけの自信も無かつたし、それに加へて学校にゐる時分から既に職業といふ問題を考へなくちやならない境遇にあつた。食つてゆくためには仕方がない。彼はあらゆる芸術上の操守を棄てて「作者道」に入つた。

 勿論《もちろん》作者と云ふ商売は面白くないものではなかつた。自分の書いたものが、白いシーツに写つたり、脚光に照らし出されたりして、観客の感情をいろ/\と唆《そゝ》り立てる事は、ひそかにそれを見てゐる彼にとつても尠《すく》なからず愉快であつた。一日《ついたち》と十五日には職工の休み日なので毎《いつ》も満員であつたがその三階まで充満した見物の喝采《かつさい》が、背景の後ろにゐる彼の耳まで達する時、彼は思はず微笑《ほゝゑ》んで四囲《あたり》を見廻すのが常であつた。或《ある》時は特等席に来てゐる美しい芸者が忍び音に彼の悲劇に泣いてゐるのも見た。或時は豪放らしい学生が思はず彼の活劇に興奮してゐるのも見た。

 初め入つた頃彼は一日も早く此んな厭《いや》な商売をよして了《しま》ひたいと思はぬ日はなかつた。座長からは妙な註文が出る。大道具がごてる。撮影技師からは場面の除去を申し込まれる。事務からは不平が起る。彼はほと/\困惑した。そして一日も早く自由が得られ、思ふまゝの創作ができる日を望んだ。


 併し、慣れるに伴《つ》れて、骨《こつ》を呑《の》み込んで了ふと、すべてが御し易《やす》くなつて来た。見物といふものも初めは恐かつたが今は可愛《かはい》くなつた。彼は彼等の心もちを自由に浮沈させる事が愉快になつて来た。厭で堪《たま》らなかつた商売がだん/\面白くなつて来る。此頃ではふと生涯の目的を忘れるやうにすらなつた。そしてそれと気がつくと驚いて自分を叱《しか》つた。此儘《このまゝ》下らない作者に堕《お》ちて了ふのは、余りに惜しい芸術的素質が自分にはある筈《はず》だ。併し自分の創作が思ふまゝにできる日はいつ来るであらう。その日の来るまでに、此商売が自分を毒して了ひはしないだらうか。彼はつく/″\職業といふことを考へた。人が何を措《お》いても先《ま》づ食つて行かなければならないと云ふのは何といふ悲惨なことであらう。併し世間には好きなことをして食つて行く人もあるんだ。自分の信ずる道を歩いてそれで報酬を得てゐる人もあるんだ。彼は世間の自由な文学者の事を考へた。学者のことを考へた。それからあらゆる職業のことを考へた。職業にはいろ/\ある。そしてそれ/″\の人々が他の職業を羨《うらや》んでゐる。併し自分の第一義と信ずる仕事を職業となし得ぬのは何たる苦痛であらう。……

 作者はそれからそれと考へ及ぶ問題を事務所の片隅で上下してゐた。

 

 もう疾《と》うに開館を報《し》らす鐘が鳴り渡つて、座の方には見物が半分ほども入つた頃である。楽隊の音が聞える。拍子木の響がする。客を呼ぶ黄色い声が起る。見物の足音が聞える。外の世界は今雑沓《ざつたふ》と喧騒《けんさう》とに充《み》たされてゐる。併しこゝの事務所はひつそりして倦怠《けんたい》と無為とが漂つてゐる。重役はもう自分の机に坐つて、何か此次にチャリネ館にかける新奇な趣向でも考へてゐるのだらう。座の方へ出払ひ残つた二三の事務員は退屈さうに『浅草だより』の演芸欄を見てゐる。も一人は只《たゞ》黙つて此次の芸題を刷り出したビラを見るともなく見つめてゐる。……
「彼等とても自分の職業を悦《よろこ》んではゐないのだな。」と若い作者は考へた。

 

 その時受付の女給が一枚の名刺を持つて入つて来た。そして重役の卓の上に置いた。重役がそれをとりあげて見ると名刺には『新帰朝手品師、ジャングル・ジャップ事、江本進一』と書いてある。重役の顔には一時妙な予期の皺《しわ》が生れた。そして其下から幅の広い声が出た。
「宜《よろ》しい。此処へ通せ。」と女には答へて、重役は事務員に向つて、かうつけ加へた。「又手品師が雇つて貰ひに来たよ。例によつて試験をしてやらうと思ふ。」
「うまかつたらチャリネ館の方へ掛けるんですか。」と事務員が訊《き》いた。
「さうだ。異《かは》つた手品ならもう一人位あつていゝだらう。」
 作者の黙想が一時破られた。併し彼は咄嗟《とつさ》の間に「あゝ世には手品師といふ職業もあるんだな。」と考へついた。――

 

 手品師は、女給に伴れられて事務所へ入つて来た。見ると青い縞《しま》の洋服を着てゐる。山高帽を脱いで手に持つてゐる。そして厭に落着いた足どりで入つて来る。彼は四方《あたり》を見廻して、軽く皆に会釈をし乍ら重役に近づいた。重役は立上つた。二人は日常の挨拶《あいさつ》をし合つた。
「今迄どこにゐたんだね。」重役は鷹揚《おうやう》に訊いた。
「上海《シャンハイ》にゐました。その前は永く米国にゐたんです。手品はそこで修業しました。私のは手品といつても他人《ひと》のと異つてますんで、入神術と云つてるんです。」
「ふむ。すると気合師なんだね。」
「えゝさうです。何んでも気合一つで鳥獣を眠らせたり、函《はこ》の中にあるものをあてたり、又は刀で腕の上に載せた大根を切つたり、ビール罎《びん》を額に打ちつけて割つたりするんです。」
「ふうむ、それは異つてるね。実は今チャリネ館には君も知つてるだらうが羽黒天海と云ふ手品師が一人ゐるんだがね。」
「あゝ、あの骨牌《かるた》と赤玉のうまい。あれでせう。」と手品師は重役の口吻《こうふん》に満足して云つた。「あの人のは普通の手品です。」
「ぢや試験に一つ君のを見せて貰《もら》へまいかな。何処《どこ》でも一応は試験をするんだが。……」と重役は云つた。
「えゝやりませう。お目にかけなくちや私の技倆は解りますまいから。」手品師はあらゆるかう云ふ芸人に共通な自慢さを以て云ひ放つた。

 

 事務員たちは卓子《テーブル》を少し引寄せて、広くもない事務所の中央に余地を作つた。黙つてゐた作者も笑ひ乍ら手伝つた。そして彼等は重役と共に傍の壁に凭《よ》りかゝつて、此の手品師のする処を見てゐた。

 

 手品師はするりと上衣《うはぎ》をぬぎ棄《す》てた。彼は快活に周囲を見廻し、それから心持昂揚《かうやう》した声でかう云つた。
「では初め鳥と獣を眠らしてお目にかけませうか。私はこれを禽獣《きんじう》降神術と名附けてゐるんです。」
「生憎《あいにく》鳥も獣も此処にゐないぢやないか。」と重役が云つた。
「其用意はちやんとして来ました。」と云つて彼は女給を顧み乍ら、「姉さん。済みませんが入口に置いてある箱を持つて来て下さい。」
 小さな檻《をり》が運ばれて来た。それには兎と※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]とが入れてあつた。
「皆さん。御覧の通りこれは私が今日通りがゝりの鳥屋から借りて来た正真正銘の兎です。」とかう彼は慣習になつた口上めいた事を云つて、四周《あたり》の人たちをずつと見渡した。彼の後ろのみかど座へ通ずる出入口には、暇になつた案内女たちが二三人、青い服を着て微笑《ほゝゑ》み乍ら見てゐた。手品師は時々その方をちらりと見捨てた。
「では一ツこれを眠らして御覧に入れませう。」彼は又かう繰り返して、兎をそこの卓上に置いた。白い兎は今迄押へられてゐた耳を一ふり二ふり振つて、まだ自分の今の位置を自覚してゐないかのやうに赤い目をきよと/\させた。

 

 手品師はそれをしばらく満足げに見てゐたが、そのうち兎が自分の方を見たと思ふと、いきなり妙に手の指を兎の前で開いて見せて、ぱつ! ぱつ! と四五度叫んだ。すると不思議なるかな、兎は急に耳を伏せて、ころりと眠つて了つた。
「決して死んだのではありません。此通り心臓が動いて居ります。」かう云つて彼は又案内人の方をちらりと見た。
「一種の催眠術だね。」重役がいくらか堪能して云つた。「そしてそれはいつになつたら眼を覚すのだい。」
「起さうと思へばすぐにも起きます。寝かして置けば百二十五歳までも寝て居ります。」彼は少なからず自分の警句を悦《うれ》しがつて云ひ続けた。「かうして置けば三日でも四日でも餌を食はずに寝て居ますよ。この方が騒がなくて取扱ひいゝ位です。」
「俺も一つかけて貰つて飯も食はずに寝てゐようかな。」事務員の一人がこんな事を云つた。
「なるほど騒々しくなくていゝでせうよ。」作者が事務員を冷やかした。

 

 手品師は黙つてこの対話を聞いてゐたが、中にも重役のいたく興味を動かした表情を見てとると、益※[#二の字点、1-2-22]快活に、
「では又目を覚してお目にかけませう。」
 彼は又ぱつ! ぱつ! を繰り返した。そして卓の上から生き返つた兎をひよいと床に落した。兎は、今迄あんなにぐつたりとしてゐた兎は、鳥渡《ちよつと》姿勢を整へて二三度弱い乍らも明白な跳躍を試みた。

 

 作者はふと生の跳躍と云ふ流行語を思ひ出して一人でふゝと笑つた。
「※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]も寝るかい。」重役がきいた。
「えゝ寝せて御覧に入れませう。みんな寝ころびますよ。奴等はすべての場所を待合と心得てゐるのですね。」手品師は卑しい笑みを湛《たゝ》へて云つた。「只《たゞ》鳩だけは寝ません。鳩は利口ですからな。先生方は御存じでせうが鳩の賢いことは聖書にもあります。」
「鳩ぢやない。ありや蛇だらう。」作者は此男の知識に内々驚き乍ら口を出した。
「どちらだか実は知らないのです。只さう米国で人に聞きましたので。……」手品師は大仰《おほぎやう》に頭を掻《か》き乍ら云つた。そしてすぐさま次なる※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]を眠らせにかゝつた。

 

 ※[#「奚+隹」、第3水準1-93-66]も手品師の手で、羽掻《はが》ひを抑へられた時は、けゝと鋭い声を揚げただけで、彼の手から卓上に置かれた時はもう首をだらりと伸ばしたまゝ横になつて了つた。

 

 それから彼は一つの手函《てばこ》を持ち出した。それは方一尺あるかない小さな桐《きり》の白木で出来てゐて、厭に威嚇するやうな銀色の大きい錠が下りてゐる。彼はそれをぽん/\と叩《たゝ》いて見せて、
「さあこれは御覧の通り、種も仕掛もない函です。どなたかこれに何ぞお入れ下さい。私が透視してお眼にかけます。」
 一人の事務員が面白がつてそれを室の隅へ持つて来た。そしてポケットから恰度《ちやうど》其日用があつて入れて置いた巻尺を取り出して入れた。

 

 手品師はそれを受取ると五尺ほどの足のついた台上に置いて、自らは蝋燭《らふそく》を点《とも》し、箱の上下左右を照して、暫《しばら》くはぢつと目を瞑《つぶ》つた。

 

 事務員たちは手品師の困惑してゐるらしい態《さま》を見て、幾分か嬉しい気分になつて私語《さゝや》き合つた。
「これは世の常の物ぢやありませんね。」やゝあつて手品師は云つた。「長さから云へば四五尺で細長い紐《ひも》のやうなものです。そして何だか蛇のやうにとぐろを巻いて居ります。それから小さな金具が着いてゐますね。どうもお意地がわるく六ヶ《むづか》しいものを入れて下すつたんで困りましたよ。どうです、少しは当りましたか。」
 彼は機嫌《きげん》をとるやうに事務員の方を向いてさう云ひ乍ら封印を切つた。中からは巻尺がもとのまゝで出て来た。
「なるほど。」重役は感心した。
「あゝものさしですね。だうりで測り兼ねましたよ。」と手品師はその洒落《しやれ》が云ひたいのでわざと当てなかつたのだと思はれる位、流暢《りうちやう》に云つた。皆は又一しきり哄笑した。彼は益※[#二の字点、1-2-22]得意になつて云ひ続けた。
「では一つ皆さんのはつ[#「はつ」に傍点]と思ふ奴をお目にかけませう。千里眼なぞは実は函を受取る時に音を聞いたり、そつと見たりするのですが、これこそほんとの手練です。どこか此処に大根は売つてゐないでせうか。」
「おひさちやん、おまへ買つておいで。」と事務員が受付の女に命じた。
「だつて昼日中大根をさげて歩くのは可笑《をか》しいわ。」女が快活に笑つた。
「まんざらさうでもあるまいぜ。今からその位の世話女房の練習はして置くさ。」
「女房に仕手《して》なんぞありやしなくてよ。」
「ぢや私がなりませうか。」手品師が口を出した。女はひよいと肩をすくめた。
「ほんとに行つて来て呉れないか。」と終《しま》ひに重役が云つた。女は口で云ふほど厭らしい様子もなく、笑ひ乍ら大根を求めに出て行つた。
「あゝ鳥渡々々《ちよつと/\》。」手品師が呼びとめた。「しなびたのは不可《いけ》ませんぜ。あなた方のやうに水つぽくて一切りでさくと行くんでなくちやあ。……」かう云ひ乍ら、彼は案内女の方を向いて笑つた。

「では其間に一つ私の面《つら》の皮の厚さ……と云ふよりは額の骨の固さをお目にかけませう。ビール罎を一つ持つて来て下さい。」

 

 ビール罎が持つて来られた。すると彼はその赤黒い罎をとり上げて事もなげにこつ/\と二度ほど額を叩き、三度目にぐるりと手を振り廻したかと思ふと、やつ! と云ふ懸け声と共に、眉間《みけん》を目がけて発矢《はつし》とばかり打ちつけた。すると其瞬間に彼の額の上から赭《あか》色の硝子片《ガラスかけ》がぱつと光を出して飛び散つた。人々が驚いてその顔の所在を探すと、思ひがけなくも彼はその少し赤らんだ額をまじり/\と撫《な》で乍ら笑つてゐる。……
「よく怪我《けが》をしないものだね。」しばらく呆気《あつけ》にとられてゐた重役が訊いた。
「えゝ。怪我をするだらうと思つて打ちつける時前へ引くと、切ることがあります。打ち付けたまゝ頭の方へ辷《すべ》らすやうにすれば、万に一度の怪我しかありません。」

 

 暫らくするとそこへ大根を持つて受付の女が帰つて来た。
「ほう、これなら上等々々。あなたはお見立が大変お上手です。」手品師はもう渡り物特有の心易さでそんなお世辞すら云つた。そしていきなり自分の左腕をまくり始めた。可成《かなり》逞《たく》ましい赤黒い腕が、たくし上げた縞のシャツの袖口からくゝられたやうに出て見えた。人々は何をするのかと思つてその赤い腕とその上に載せられた白い大根とを見比べた。
「この大根を此の手の上で真つ二つに切つて御覧に入れます。御覧の通り此の手は贋物《にせもの》ではありません。そんなことを云ふと私のおふくろが怒ります。」
 案内女たちがくす/\と笑つた。彼はそれに元気づいて云つた。
「ひよつとすると私は半分位此手を切るかも知れません。その時は御婦人方の中どなたかが血を啜《すゝ》つたり、白いハンケチで拭《ふ》いて下さるでせうな。では早速乍ら取りかゝりませう。」

 

 手品師はきつと真面目《まじめ》な顔に還《かへ》つて、右手に少し長い刀を取り上げた。緊張がしばらく彼の顔に漲《みなぎ》る……額のあたりが少し蒼《あを》ざめて、眼が猛々《たけ/″\》しく左腕に注がれた。彼は明かに大根の厚さを計量してゐるらしかつた。そして一二度刀をふり下す拍子を取つて、さつきと同じく「やつ!」と叫ぶと、瞬《またゝ》く間に大根は二つに切断されて床上に散らばつた。
「まあざつとこんな調子です。」彼は吾れと吾が詭術《きじゆつ》に酔つたやうな顔をして四方《あたり》を見廻した。そしてその眼は不自然な凝視で以て重役の上に暫らく止まつた。

 

「いや御苦労。面白かつた。ではいづれ正式に契約するが、兎《と》に角《かく》チャリネ館へ出て貰ふとしよう。それから君は何か看板になるやうな肩書はないかね。新帰朝以外に。何かかう……米国皇族殿下台覧とでも云ふやうな、……」
「米国に皇族があるもんですか。」作者が笑ひ乍ら云ふ。
「なあに例《たと》へて云つたのさ。皇族が大統領でもかまひはしない。」
「では前大統領ルーズベルト夫人台覧と云ふ事にしませうか。」と手品師が事もなく云ひ放つた。
「そいつはいゝ。ルーズベルトなら獅子狩《しゝがり》にゆくから、その夫人は兎の眠るのを見る位な事はするだらう。」作者が皮肉に口をさし挾《はさ》んだ。
「ではさう云つておどかすとしよう。まああつちの応接間へ来給へ。給金を相談するから。」
 かう云ひ乍ら重役は、普通の興行師とは異《ちが》ふ打明けた態度で手品師を誘つた。

 

 手品師はそこらの道具を片附けると、もう一度女たちの方を見て、くすんと笑ひ乍ら米国流に尻をふつて従《つ》いて行かうとした。
 其時作者が不意に「君!」と呼びとめた。彼の心にふとさつきの問題が浮び上つたのである。手品師といふ職業。彼は何んだかその心持を訊いて見たくなつた。
「君は初めつから手品師になるつもりで米国へ渡つたのかい。」
「いゝえ、初めは真《ま》つ当《たう》な仕事をするつもりで出かけたんですが、恰度食へなくなつた時、ある手品師の一行に入つて事務員見たいなものをやつたんです。すると見やう見まねでだん/\こんな事が面白くなつて来て、たうとう商売になつて了つたんですよ。」
「ふうむ。あの大根切りなぞは嘸《さぞ》練習が入るだらうね。あれをするのに何年位かゝつたい。」
「さうですな。初めは金箍《かなたが》をはめてやるのですが、かれこれ六年も毎日やりましたかな。」
「へゝえ、それだけの熱心を他のものに注いだら、立派な出世ができるだらうになあ。」
「それは時々私もさう思ひますんで。併し旦那、何しろ鳥渡面白うがすからな。一度この道へ踏み込んだら最後、二度と世間へは出られませんや。」
「さうかねえ。誰でも一度こんな商売をすると、もう足がぬけられないものかねえ。」作者はしみ/″\と自分に徹するやうに云つた。
「さうですよ。何しろ見物がわつと湧《わ》けあ、いつの歳になつても面白うがすからな。まあそいつを楽しみにしてやつてゐるんです。わつしだつて他に正直《まつたう》な商売があるもんなら、やりたいのは山々なんですよ。いやはや、これはお喋《しやべ》りをしました。御免……。」と云つて彼は応接間の方へ行つて了つた。

 

 一としきり楽隊の音が騒々しく起る。するとそれを縫うて拍子木の音が響く。座の方では今第一回の連鎖劇が始まる処であらう。案内女たちも去つた。事務員たちも卓についた。併しこの若い作者だけはぢつと手品師の行つたあとを眺めて、黙想し乍ら立ちつくした。あゝ職業、職業。彼は先ず今日一日だけも此儘ゐなければならない。『二ちやう』と聞くと彼は急いで薄暗い楽屋裏へ急いだ。

 

(大正五年四月)

底本:「現代日本文學大系 45 水上瀧太郎 豐島與志雄 久米正雄 小島政二郎 佐佐木茂索 集」筑摩書房
   1973(昭和48)8月30日初版第1刷発行
   1982(昭和57)9月5日初版第11刷発行
初出:「新思潮」
   1916(大正5)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:鈴木厚司
2006年9月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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浅草文庫 - 久米正雄 - 「手品師」

久米正雄|浅草文庫
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