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浅草寺(浅草観音) - 「鶏鳴と神楽と」 折口信夫 1920(大正9)年1月

 今日でも、まだ到る処の宮々に、放ち飼ひの鶏を見かける。ときをつくらせたり、青葉の杉の幹立の間に隠見する姿を、見栄さうと言つた考へから飼うて置くのでない事は、言ふ迄もない。あれは実は、あゝして生けて置いて、いつ何時でも、神の御意の儘に調理してさし上げませう、とお目にかけて置く牲料で、此が即、真の意味のいけにへなのである。

 白い鶏が神饌に供へられる事は、其例多く見えて居るが、必しも白い物ばかりを飼うて居た訣ではなく、偶々、民家の家畜の中にも、白い羽色のが生れると、献るべき神意と信じ、御社へあげ/\して来た事であらう。古風な江戸びとは、いまだに卵を産まなくなつた鶏を、浅草寺の境内へ放しに行く。内容は変つても、尠くとも、形式だけはまだ崩れないで居る一例である。




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