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浅草田圃 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

 仲店の中間、左側が伝法院で、これは浅草寺の本坊である。庭がなかなか立派で、この構えを出ると、直ぐ裏は、もう田圃で、左側は田原町の後ろになっており、蛇骨湯という湯屋があった。井戸を掘った時大蛇の頭が出たとやらでこの名を附けたとか。有名な湯屋です。後ろの方はその頃新畑町といった所、それからまた田圃であった。


 伝法院の庭を抜け、田圃の間の畔道を真直に行くと(右側の田圃が今の六区一帯に当る)、伝法院の西門に出る。その出口に江戸侠客の随一といわれた新門辰五郎がいました。右に折れた道が弘隆寺、清正公のある寺の通りです。それから一帯吉原田圃で、この方に太郎稲荷(この社は筑後柳川立花家の下屋敷内にある)の藪が見え、西は入谷田圃に続いて大鷲神社が見え、大音寺前の方へ、吉原堤に聯絡する。この辺が例のおはぐろどぶのあるところ……すべて、ばくばくたる水田で人家といってはありませんでした。





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浅草田圃・長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩轂撃、押すなおすなの雑沓を現ずるのだが、何がさて、大慾は無慾に近く、とりにゆくのはとられにゆくので、鷲神社には初穂をとられ、熊手屋には見すみす高いものを負けろとあって

浅草田圃・奥山・見世物 - 「鴎外の思い出」 小金井喜美子 1955(昭和30)年10月

見世物小屋のある方へ行って、招牌を見て歩きます。竹の梯子に抜身の刀を幾段も横に渡したのに、綺麗な娘の上るのや、水芸でしょう、上下を著た人が、拍子木でそこらを打つと、どこからでも水の高く上るのがあります。犬や猿の芸をするのもあったようです。尤も一々這入ったのではありません。中の見

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