top of page

浅草田圃・隅田川・大川 - 「引札のはなし」 久保田万太郎 1948(昭和23)年10月

 電車だのバスの広告をみて、とき/″\、たまらなく可笑しくなつたり、わけもなく腹が立つたりするのはわたくしばかりだらうか?

 たとへば浅草公園裏の、そこがまだ田圃の名残をとゞめてゐた時分からの、草津といふ宴会専門の料理屋の広告に、「浅草田甫、草津」とことさらめかしく書いてあつたり、橋場の、このごろ出来た蟹料理……ではないのかも知れないけれど、すくなくもその程度にしか評価出来ないうちの広告に「浅草橋場の大川端」とれい/\しく書いてあつたりするのをみるとたまらなく可笑しくなる。そして、たとへば、小石川あたりの、おなじく宴会料理屋の、真ん中に角かくしをかけた花嫁のすがたを描き、その上に大きく「産めよ、殖せよ、み国のために」とした婚礼料理の広告をみたりするとわけもなく腹が立つのである。

 なるほどわたくしの育つた時分には……わたくしは浅草で育つたのである……田甫の何々と。……たとへば田甫の大金とか、田甫の平野とか、田甫の太夫とかいつてもちツとも不思議ではなかつた。むしろその古風な言ひ方になつかしさをさへ感じた。が、だからといつて、浅草と下谷とをつなぐ目貫の道路、自動車自転車の氾濫する鋪装道路をその門のまへにもつにいたつた存在にして、今さら何もさうした回顧的な看板をあげる手はないのである。あげたところで、根ツから通用しないのである。通用しないかぎりあきらかにそれは穿違へである。まだしも、あとの、隅田川の沿岸ならどこでも大川端といへると思つてゐる物知らずのはうがつみがない。



Comentários


Os comentários foram desativados.
bottom of page