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浅草田圃・鎮護堂の狸・伝法院 - 「寺内の奇人団」 淡島寒月 1912(明治45)年4月

 ただ今の六区辺は淋しい処で、田だの森だのがありました。それを開いたのは、大橋門蔵という百姓でした。森の木を伐ったり、叢を刈ったりしたので、隠れ家を奪われたと見えて、幾匹かの狸が伝法院の院代をしている人の家の縁の下に隠れて、そろそろ持前の悪戯を始めました。ちょっと申せば、天井から石を投げたり、玄関に置いた下駄を、台所の鍋の中に並べて置いたり、木の葉を座敷に撒いたり、揚句の果には、誰かが木の葉がお金であったらいいといったのを聞いたとかで、観音様の御賽銭をつかみ出して、それを降らせたりしたので、その騒ぎといったらありませんでした。前に申したスリエの曲馬で大砲をうった男が、よし来たというので、鉄砲をドンドン縁の下に打込む、それでもなお悪戯が止まなかったので、仕方がないから祀ってやろうとなって、祠を建てました。これは御狸様といって昔と位置は変っていますが、今でも区役所の傍にあります。


 その御狸様のお告げに、ここに祀ってくれた上からは永く浅草寺の火防の神として寺内安泰を計るであろうとのことであったということです。


 今浅草寺ではこのお狸様を鎮護大使者として祀っています。当時私の父椿岳はこの祠堂に奉納額をあげましたが、今は遺っていないようです。

 毎年三月の中旬に近い日に祭礼を催します。水商売の女性たちの参詣が盛んであるようですが、これは御鎮護様をオチンボサマに懸けた洒落参りなのかも知れません。




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浅草田圃・長國寺・鷲神社・浅草酉の市 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

酉の市は取りの市、掃き米はき込めの慾の皮がつッ張った連中の、年々の福を祝うてウンと金が儲かるようと、それさに肩摩轂撃、押すなおすなの雑沓を現ずるのだが、何がさて、大慾は無慾に近く、とりにゆくのはとられにゆくので、鷲神社には初穂をとられ、熊手屋には見すみす高いものを負けろとあって

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