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伝法院 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月

「倉橋君」

と朝野が、かすれた声で遮った。「倉橋君は、伝法院の庭を知っていますか」

 突拍子もないことを言う。だが、朝野が突拍子もなくサーちゃんの話を遮った気持は、私は何かわかる気がした。

「伝法院の庭というと……」

「庭園ですよ」

「庭園というと……」

「区役所の前の」

「ああ、あすこですか。まだ……」

「入ったことがない? 駄目ですな」

「…………」

「なかなかいいですよ。倉橋君は浅草を何も知らんですな。――あれは小堀遠州が作ったとかで、京都の桂離宮と同じ、回遊式庭園というんだそうで」

(これは、後に知ったが、庭園の入口にちゃんと書いてあるのだ。)

「玉木座の前のところの、塀で囲ってある……」

と、サーちゃんが口を挟んだ。

「うん」

「あたしも入ったことないわ。話は聞いてるけど」

 朝野は苦笑した。

「いいお庭?」

「そりゃ、いいさ」

 ヘンに力んで、

「ランデヴーなんかには、もってこいだ。――どうです。倉橋君、ひとつ小柳君とランデヴーに行っては」

 そう言って、――あわててその言葉を揉み消そうとするような勢い込んだ声で、

「江戸の雰囲気の漂っている実にいい庭だが……。裏の野口食堂あたりから、妙な流行歌のレコードなんかが、ガーガー響いてきて、こいつがどうもぶちこわしだ。それに江戸情緒の庭の向うに、ひどく現代的な区役所のサイレンの拡声機などが聳えていて、そんなのがどうも変ですがね」





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