伝法院 - 「如何なる星の下に」 高見順 1939(昭和14)年1月-1940(昭和15)年3月
- 浅草文庫
- 2018年10月25日
- 読了時間: 2分
「倉橋君」
と朝野が、かすれた声で遮った。「倉橋君は、伝法院の庭を知っていますか」
突拍子もないことを言う。だが、朝野が突拍子もなくサーちゃんの話を遮った気持は、私は何かわかる気がした。
「伝法院の庭というと……」
「庭園ですよ」
「庭園というと……」
「区役所の前の」
「ああ、あすこですか。まだ……」
「入ったことがない? 駄目ですな」
「…………」
「なかなかいいですよ。倉橋君は浅草を何も知らんですな。――あれは小堀遠州が作ったとかで、京都の桂離宮と同じ、回遊式庭園というんだそうで」
(これは、後に知ったが、庭園の入口にちゃんと書いてあるのだ。)
「玉木座の前のところの、塀で囲ってある……」
と、サーちゃんが口を挟んだ。
「うん」
「あたしも入ったことないわ。話は聞いてるけど」
朝野は苦笑した。
「いいお庭?」
「そりゃ、いいさ」
ヘンに力んで、
「ランデヴーなんかには、もってこいだ。――どうです。倉橋君、ひとつ小柳君とランデヴーに行っては」
そう言って、――あわててその言葉を揉み消そうとするような勢い込んだ声で、
「江戸の雰囲気の漂っている実にいい庭だが……。裏の野口食堂あたりから、妙な流行歌のレコードなんかが、ガーガー響いてきて、こいつがどうもぶちこわしだ。それに江戸情緒の庭の向うに、ひどく現代的な区役所のサイレンの拡声機などが聳えていて、そんなのがどうも変ですがね」

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