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見世物 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月

  • 執筆者の写真: 浅草文庫
    浅草文庫
  • 2018年9月24日
  • 読了時間: 1分

 維新の破壊の手は一番遅れて浅草に及んだので、明治十四、五年ごろまでは江戸の気分がマダ浅草には漂っていた。一つは椿岳や下岡蓮杖や鵜飼三次というような江戸の遺老が不思議に寺内に集って盛んに江戸趣味を発揮したからであった。この鵜飼三次というは学問の造詣も深く鑑識にも長じ、蓮杖などよりも率先して写真術を学んだほどの奇才で、一と頃町田久成の古物顧問となっていた。

 この拗者の江戸の通人が耳の垢取り道具を揃えて元禄の昔に立返って耳の垢取り商売を初めようというと、同じ拗者仲間の高橋由一が負けぬ気になって何処からか志道軒の木陰を手に入れて来て辻談義を目論見、椿岳の浅草絵と鼎立して大に江戸気分を吐こうと計画した事があった。当時の印刷局長得能良介は鵜飼老人と心易くしていたので、この噂を聞くと真面目になって心配し、印刷局へ自由勤めとして老人を聘して役目で縛りつけたので、結局この計画は中止となり、高橋の志道軒も頓挫してしまった。マジメに実行するツモリであったかドウか知らぬが、この時分はこうした茶気満々な計画が殆んど実行され掛ったほどシャレた時代であった。




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