浅草橋から駒形へ出、そして吾妻橋のかたわらを過ぎて、とうとう彼等の愛の巣のある山の宿に入った。所はかわれども、荒涼たる焼野原の景は一向かわらずであった。
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すべて表示震災の当日、その時びっくりして戸外に飛び出した私の目に、八階から上が折れてなくなった、浅草公園の十二階の無慙な姿が映った。私の家は吉原遊廓のはずれにあって、家の前の広場からは、浅草公園の十二階がよく見えた。 その日、私の一家はみんなばらばらになった。私と花やという女中が上野
聞くところによると、明治四十三年の夏の水害と翌年春の大火とは、吉原とその界隈の町の有様を一変させたと云うが、私はちょうどその大火のあった年の秋に生れた。物心がついてまもなくあの大震災があった。震災は私たち東京人の生活に一時期を画したが、私としても自分の少年の日は震災と共に失われ
二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗い蝋燭を点して露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜を十個ほど並べて、それを輪切り
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