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隅田川・大川 - 「波子」 坂口安吾 1941(昭和16)年8月28日

 どこへ行つても、人がゐる。人、人である。人のゐない場所はなかつた。人の一人もゐない所へ行つてみたいな、さう考へて、歩いてみた。けれども、人は、どこにでもゐる。

 どうして、人のゐない所へ行きたくなるのだらうか。誰も自分に話しかけたり、邪魔したり、しないのに。人は、跫音をたてる。人は、喋る。子供は、泣いてゐる。ボールを投げてゐる。ハモニカを吹いてゐる。

 けれども、深山にも、鳥は啼き、渓流は、がう/\ととゞろいてゐる。森林も、風をはらんで、どよめき、海すらも、鳴りとゞろいてゐるのだ。なぜ、人のゐない所へ行かなければならないのだらう。

 隅田公園のベンチに休んで、汚い水面を眺めてゐる。ウオー。ウオー。ウオー。と、密林の野獣のやうに、叫びたくなる。ウオー。ウオー。ウオー。密林では、誰も返事をしてくれない。自分の声が、木魂になつて、帰つてくる。その声をきく。気を失ひさうな、ひろさ。変に喉の乾いたやうな、空々しい思索がある。自分は、今、ひとりぽつち。はつきり、分るのは、多分、それだけであらう。だが、公園のベンチにゐても、やつぱり、人は、ひとりぽつちに変りがない。石を拾つて投げる。コロ/\ころがり、子供の足にぶつかり、汚い水面へ落ちこむ。面白くも、ないのである。





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隅田川・大川・屋形船 - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

川びらきの夜に始まりて、大川筋の夕涼み、夏の隅田川はまた一しきり船と人に賑わうをつねとする。  疇昔は簾かかげた屋形船に御守殿姿具しての夕涼み、江上の清風と身辺の美女と、飛仙を挟んで悠遊した蘇子の逸楽を、グッと砕いて世話でいったも多く、柳橋から枕橋、更には水神の杜あたりまでも

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