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駒形堂 - 「幕末維新懐古談 名高かった店などの印象」 高村光雲 1929(昭和4)年1月

 堂は六角堂で、本尊は観世音、浅草寺の元地であって、元の観音の本尊が祭られてあった所です。縁起をいうと、その昔、隅田川をまだ宮戸川といった頃、土師臣中知といえる人、家来の檜熊の浜成竹成という両人の者を従え、この大河に網打ちに出掛けたところ、その網に一寸八分黄金無垢の観世音の御像が掛かって上がって来た。主従は有難きことに思い、御像をその駒形堂の所へ安置し奉ると、十人の草刈りの小童が、藜の葉をもって花見堂のような仮りのお堂をしつらえ、その御像を飾りました。遠近の人々は語り伝えて参詣をした。それで駒形堂をまた藜堂とも称えます。そうして主従三人は三社権現と祭られ浅草一円の氏神となり、十人の草刈りは堂の左手の後に十子堂をしつらえて祭られました。


 駒形は江戸の名所の中でも有名であることは誰も知るところ……何代目かの遊女高尾の句で例の「君は今駒形あたりほとゝぎす」というのがありますが、なるほど、駒形は時鳥に縁のあるところであるなと思ったことがあります。というのは、その頃おい、駒形はまことによく時鳥の鳴いた所です。時鳥の通り道であったかのように思われました。それは、ちょうどこの駒形堂から大河を距てて本所側に多田の薬師というのがありましたが、この叢林がこんもり深く、昼も暗いほど、時鳥など沢山巣をかけていたもので、五月の空の雨上がりの夜などには、その藪から時鳥が駒形の方へ飛んで来て上野の森の方へ雲をば横過って啼いて行ったもの……句の解釈は別段だけれども、実地には時鳥のよく鳴いた所です。そして向う河岸一帯は百本杭の方から掛けて、ずっとこう薄気味の悪いような所で、物の本や、講釈などの舞台に能くありそうな淋しい所であった。





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