top of page

浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

「​浅草繁昌記」

松山傳十郎 1910(明治43)年

一部抜粋

 旧雷門のありしところより仁王門に至る間、七十余間を仲店といふ。道幅五間余を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に近きところには茶店ありて二十軒茶屋と称したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、そのあとには露店など並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市により建設せられたるものなり。

 仲見世各商店は一棟を数戸に分割し、間口九尺奥行も亦それ以上に出でざるを以て、内部の狭隘はいふばかりなく、出店商人は夜間は店を鎖してうちに帰り、翌日また弁当を持ちて通い来たる有様なり。然れどもこの仲見世は公園内の最も繁昌するところにて、凡そ観音に参詣するものは、家へのみやげ物は大抵こゝにて買求むるを以て日々の商売額甚だ多きを以て出店を希望するもの多く、多額の金円をいだすにあらざれば容易にその店株を得る能はず、場所によりては三百円以上に達するものありといふ。

 蓋し浅草区は、世のいはゆる政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の徒なるものがその住所を定むるもの少し。今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、文士、はた官吏がこの区内に住めるか。思ふにかゝる江戸趣味及び江戸ッ児気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、徳川氏三百年の泰平治下に養はれたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり。

「浅草繁昌記」 実力社編纂 竜渓書舎編集部編 1910(明治43)年

浅草文庫 - 松山傳十郎 - 「浅草繁昌記」

bottom of page