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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草にまつわる、ことば字引

浅草文庫 - ことば字引 - あ行

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あ行​

 蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。

 この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和6年(1620年)に鳥越神社の丘(鳥越山)にあった三神社のうち二社を移転させ、丘の切り崩しによって隅田川を埋め立てて造られた。その総敷地面積は36646坪(ただし『御府内備考』は27900坪とする)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった。

 この蔵の米が旗本・御家人たちにとっての扶持米すなわち今でいう給料となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や、新たに鳥越山の北側や西側に広がる湿地帯だった姫ヶ池なども埋め立てて武家屋敷を整備し、役宅を与えられ住んでいた。

 浅草オペラ(あさくさオペラ、1917年 - 1923年)は、関東大震災までの大正年間、作曲家の佐々紅華や興行師の根岸吉之助、ダンサーの高木徳子らが中心となり東京の浅草で上演され、一大ブームを起こしたオペラ、オペレッタとそのムーヴメントである。第一次世界大戦後の好況を背景に、日本国内におけるオペラ、および西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たした。

 1916年(大正5年)、アメリカ留学から帰ってきた高木徳子が「世界的バラエチー一座」を旗揚げ、同年5月27日から10日間にわたり浅草公園六区(浅草寺西側の興行街)の活動写真館「キネマ倶楽部」で昼夜連続公演を行う。アメリカ流のミュージカルであったが、この公演の成功をもって「浅草オペラ」の嚆矢とする。

 いっぽう、1911年(明治44年)に始まる麹町区丸の内の帝国劇場(帝劇、現在の千代田区丸の内)を舞台にしたオペラが、1916年5月の帝劇洋劇部の解散により行き場を失くす。高木は、7月に一座を解散し、9月に伊庭孝と組み、弟子たちおよび帝劇洋楽部のメンバーの一部とともに新劇団「歌舞劇協会」を結成、川上貞奴の一座との合同公演を甲府、暮れには赤坂区溜池(現在の港区赤坂1-2丁目あたり)で行い、翌1917年(大正6年)1月22日、浅草六区の根岸興行部「常磐座」でオペラ『女軍出征』を上演、大ヒットする。ここから「浅草オペラの時代」が始まるとされる。

 浅草でのオペラ、オペレッタ公演は、帝劇でのそれとは違い、なんといっても大衆のもの、若者のものであった。入場料が安く、20銭ないしは10銭で半日たのしむことができた。「浅草オペラ」の熱狂的なファンは「ペラゴロ」(オペラ+ゴロツキ)とも呼ばれた(女義太夫の取り巻きファンを「堂擦連(どうするれん)と呼んだのと同様である)。後年有名になる当時のペラゴロ青年に、浜本浩(のちに小説『浅草の灯』(1938年)を書いた)、今東光、サトウ・ハチローらがいた。また、「ペラゴロ」とまではいかなかったが、浅草オペラを愛好した青少年には、宮沢賢治、小林秀雄、今日出海、徳川夢声、東郷青児、川端康成らがいた。宮沢は田谷の名を織り込んだ詩『函館港春夜光景』(1924年作、『春と修羅 第二集』所収)を残し、『ブン大将』に影響を受けたオペレッタ『飢餓陣営』(1922年、通称『バナナン大将』)を書き、花巻農学校で上演している。なお川端の小説『浅草紅団』(1929年)は、浅草オペラの後の時代の浅草を描いた作品である。

 

 1923年(大正12年)9月1日、突如襲いかかった関東大震災により、浅草は壊滅的な被害を受け、大道具、小道具や楽譜類が消失、劇場も使用不能となった。浅草での上演は行えなくなり、旅興行や浅草以外での東京公演を行った。1924年(大正13年)3月にはついに「根岸大歌劇団」は解散、田谷らが別の歌劇団を結成したり、上演内容が貧弱になったりしたため、大衆の関心が離れて集客力が低下、1925年(大正14年)10月の「浅草劇場」での『オペラの怪人』上演を最後に、「浅草オペラ」は消滅した。

 やがて浅草公園六区は復興し、浅草オペラは、人的にも文化的にもレヴューや軽演劇を残した。榎本健一らの「カジノ・フォーリー」や「プペ・ダンサント」、古川緑波らの「笑の王国」が花開いた。1931年(昭和6年)12月31日には、陸軍戸山学校出身で浅草オペラ時代にテナー歌手として活躍し、後に玉木座の支配人に転進した佐々木千里が、角筈にムーランルージュ新宿座を開き、この文化を継承した。

 東京都の浅草・山谷・千住などの地区で、江戸期に生産された和紙。古紙を溶かして漉きなおした粗悪な再生紙であったが、庶民の日用紙として多く用いられた。

 浅草公園六区(あさくさこうえんろっく)は、東京都台東区浅草にある歓楽街である。通称、浅草六区又は公園六区。「六区」は元々1884年(明治17年)より始まった浅草公園の築造・整備における区画番号の第六区画を指した。

 浅草寺の周辺は元禄時代の頃から盛り場になったとされ、江戸最大の盛り場に発展。明治時代に入り欧米にならって都市公園を造るべく、浅草寺境内は1871年(明治4年)1月の社寺領上知令を受けて明治政府に公収され、1873年(明治6年)1月の「太政官布達第十六号」により1873年3月「浅草公園」と命名された。 1883年(明治16年)9月浅草寺西側の日除地(通称、浅草田圃)の一部を掘って池(大池、後に通称瓢箪池)とし、掘り出した土で西側と南側の池畔を築地して街区を造成、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街を形成した。1884年(明治17年)1月公園地は東京府によって一区から六区までに区画され(同年9月七区追加、1934年公園地から除外)、その歓楽街は「浅草公園地第六区」となった。

 下谷区と浅草区が合併し台東区が誕生した年の1947年(昭和22年)4月の「社寺等宗教団体の使用に供している地方公共団体有財産の処分に関すること」内務文部次官通牒に基づき、同年5月をもって公園地から解除されやがて浅草寺の所有に戻った。しかし一区から六区までの行政区画上の町名は、そのまま1965年(昭和40年)8月の住居表示制度が導入されるまで残された。 とりわけ1886年(明治19年)5月に浅草公園が開園してからは、浅草公園の名よりも浅草六区の名が先行するまで栄えた。地図の上では、公園六区は旧浅草公園(六区を除く)と地域区分されていた。

 前後するが、浅草公園六区は1887年(明治20年)の根岸興行部の「常盤座」に始まり、演劇場、活動写真常設館、オペラ常設館などが出来て隆盛を誇り、江川の玉乗り、浅草オペラ、安来節等が注目を浴びた。1890年(明治23年)に建設された凌雲閣(浅草六区北側)は通称「浅草十二階」と呼ばれた高層ビルで、その展望台は浅草はおろか東京でも有数の観光名所となったが、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で崩壊した。1903年(明治36年)には、吉沢商店が日本初の映画専門館「電気館」をオープンした。

昭和に入っても「アチャラカ」と呼ばれた荒唐無稽の喜劇が好評を博し、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終戦後も軽演劇、女剣劇、ストリップ、およびその幕間に演じられたコントが注目を浴び芸能の殿堂・一大拠点としてここからスターとなった芸能人も数多かった。

 1951年(昭和26年)浅草寺本堂再建のためにランドマークであった通称「瓢箪池」(古瓢箪池を含む)が埋め立てられ、跡地に1952年(昭和27年)浅草楽天地の映画館「浅草宝塚劇場」と1954年(昭和29年)遊園地「楽天地スポーツランド」[6]、1959年(昭和34年)東急グループの複合娯楽施設「新世界ビル」が建つ。また、1954年に観音本堂から六区興行街までの間が西参道商店街として整備される。

 浅草公園水族館(あさくさこうえんすいぞくかん)は、かつて存在した日本の水族館である。通称浅草水族館。 昭和初年に2階が「余興場」となり、軽演劇の劇団「カジノ・フォーリー」が旗揚げしたことで知られる。

 1899年(明治32年)10月15日、 東京市浅草区浅草公園四区(現在の東京都台東区浅草2丁目7)、四区勧工場「共栄館」に改造を加え、開業した。日本初の「私設水族館」であった。館長は水産伝習所初代事務局長・太田實。海水魚のために、千葉県富津沖から海水を運び入れた。1-16号室の15室の水槽を持ち、地下には食堂、2階には「余興場」があった。観覧料は大人5銭、小人3銭であった。

 同年、瞰海堂が『東京名物浅草公園水族館案内』(藤野富之助著)を発行、これは日本初の水族館解説・案内書となった

 浅草神社(あさくさじんじゃ)は、東京都台東区浅草の浅草寺本堂右隣にある神社である。通称に三社権現(さんじゃ ごんげん)、三社様(さんじゃ さま)。5月17日の例大祭は三社祭という。

 浅草神社の草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。

 社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前濱成(浜成)・檜前竹成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に同じ人形の像が繰り返し掛かった。兄弟がこの地域で物知りだった土師眞中知(真中知)に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが淺草寺の始まりである。土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・竹成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。

 実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として前述三氏を郷土神として祀っている。

 明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。

 東京・浅草公園は、かつて浅草寺の境内地を中心にあった公園。日本初の都市公園の一つとして、1873年(明治6年)3月25日に誕生した。 公園用地は1871年(明治4年)寺社領・境内地の上地令により公収され、明治6年太政官布達第16号で東京府から公園の指定を受け、整備を始めた。当初は浅草寺境内と仲見世や奥山地区等に限定していたが、東京府は他の4公園の維持管理費を賄うため浅草公園から上がる地代収入に期待して、1876年(明治9年)11月以後伝法院、浅草寺火除地、界隈16ヶ町等を組入拡大した。1882年(明治15年)にはようやく浅草寺西側の浅草田圃と呼ばれる火除地を埋め立て、林泉地区(後の四区)と興行地区(後の六区)の造成に着手。1883年(明治16年)9月26日に造成完了、1884年(明治17年)1月公園地は6つの区画に分かれ、同年9月に7区目が追加(後に除外)。こうして浅草公園の開園式は、1886年(明治19年)5月20日より行われた。

 徳川家康が江戸入りした頃の浅草寺門前で獲れたアサクサノリを和紙の技法で板海苔としたものを『浅草海苔』と呼ぶようになった。当時は焼かずにいたが、その後に焼き海苔として使用するようになった。

 江戸時代に隅田川下流域で養殖された江戸名産のひとつで、和名は岡村金太郎による。名の由来は、江戸の浅草で採取、販売、製造されたため、など諸説ある。

 「江戸前海苔」、「本場海苔」とも呼ばれ最高級品で、昭和初期まで日本一の海苔生産地であった。海苔の種類の中では、味、香り共に一級品であるが、養殖に非常に手間がかかり、また、傷みやすく病気にもかかりやすいため養殖が難しく、希少であり、高級品である。

 浅草花やしき(あさくさはなやしき)は、東京都台東区浅草二丁目28番1号にある遊園地。

 1853年(嘉永6年)開園で、日本最古の遊園地とされる。ただし、第二次世界大戦の影響で一度取り壊された後、1947年(昭和22年)に復活した経緯があるため、断絶のない歴史としては前身も含めて1912年(大正元年)開業とされるひらかたパークの方が長い。

敷地面積5800m2。国産初、日本で現存最古のローラーコースターがある。

 1853年(嘉永6年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約8万m2だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、ブランコが唯一の遊具だった。

明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。

 この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。

 大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した。

 戦時下において徐々に規模を縮小し、まず1935年(昭和10年)に仙台市立動物園に動物を売却し、事実上閉園。1939年(昭和14年)、須田町食堂(「聚楽」)が買収し、名称も食堂遊園地浅草楽天地に変更。

 松竹によって合資会社浅草花屋敷が設立され、天野鉄男が支配人に就任。劇場や映画館と共に再度遊戯施設が設けられたが、1942年(昭和17年)には強制疎開によりついに取り壊された。終戦直後、敷地内は不法占拠されていたが、1946年8月に東京都から合資会社浅草花屋敷に対する借地権の回復が認められる。それでも不法占拠は継続されていたが、天野は当時、あらかわ遊園や豊島園も受託していた実績があった東洋娯楽機の山田貞一に共同経営を持ちかけ、山田の尽力で何とか敷地が回復。1947年(昭和22年)春に遊園地「浅草花屋敷」として再開園。2年後には東洋娯楽機に経営自体が委ねられ「浅草花やしき」と改名。のちの花やしきの園長を務めた高井初恵(山田の娘)の夫である高井清が支配人に就任した。

 そして1953年(昭和28年)のローラーコースターなど現在もあるアトラクションが登場し始めた。天野の関係する中映も園内に植物園を設置していた。長らく入園料を取らず、利用する施設ごとに回数券などで料金を支払う形を取っていた。

 元は江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに推進した火除地の一種として上野や両国などに設置され、続いて3年後の万治3年(1660年)に大火にあった名古屋にも同様の通りが設置された。火災の類焼を食い止める役割を果たした。また、広小路に沿って火除土手(ひよけどて)が設けられたが、今日では失われてしまった場所も多い。

 後に各地に広まって同様の趣旨をもった通りを「広小路」と称するようになった。江戸時代から昭和戦前までに名付けられた街路のため、太平洋戦争後の復興で広小路より更に広い街路を持つ都市も少なくない。

 浅草文庫(あさくさぶんこ)とは、徳川幕府の学問所と将軍の紅葉山文庫の書籍を蔵書とした、明治初期に東京で開設された明治期の公立図書館。

 明治政府は旧幕府から接収した書籍類を太政官や各大学へ分割して引き継いだが、文部省博物館(本省機構かつ展示施設、現東京国立博物館)はこれらを1か所にまとめて公衆の閲覧に供することとし、1872年(明治5年)に日本最初の近代的公立図書館として「書籍館」(しょじゃくかん、図書館の古称)を湯島聖堂(大成殿)に開設した。蔵書の内訳は次のとおり(原所蔵元(引継元))。

 紅葉山文庫本(太政官府)
 昌平坂学問所本(大学)
 医学館本(大学東校)
 蕃書調所本(大学南校)

 1874年(明治7年)になり明治政府は書籍館閲覧室となっていた大成殿大講堂を会議場として利用するため、当時は太政官博覧会事務局管轄下となっていた書籍館を閉鎖し、蔵書を浅草蔵前の旧浅草御蔵の米蔵に移した。そして同地に閲覧所を新築し翌1875年(明治8年)に開館した。同年に文部省は改めて湯島聖堂に図書館「東京書籍館」を開設したので、開館時には博物館とともに内務省管轄となっていた同施設は、明治新時代の事物である書籍館・図書館の名を冠さない「浅草文庫」と称した。浅草文庫は博物館の付属施設であったため、博物館の古書画も保管し、これらの閲覧もできた。

 1881年(明治14年)、上野公園に新築された博物館構内の「書籍借覧場」に移転し、蔵前の閲覧所は閉鎖されて建物は東京職工学校(東京工業大学の前身)に引き継がれ、浅草文庫は幕を閉じた。蔵書の大部分は古典籍・古文書として現東京国立博物館にまで引き継がれたが、一部は内務省本省を経て内閣文庫の中核となり、現在は国立公文書館に保存されている。

 創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものである。

 長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが行われたようである。

 橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。これは近辺で隅田川が「大川」と呼称されていたことにちなむ。しかしながら、俗に江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。いずれにしても、1876年(明治9年)2月に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名された。

 この最後の木橋は1885年(明治18年)7月の大洪水で初めて流出した千住大橋の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突。一緒に流失してしまう。そのために1887年(明治20年)12月9日に隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、鉄道(東京市電)橋、車道橋の3本が平行して架けられていた。

 1923年(大正12年)9月1日の大正関東地震(関東大震災)によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後、1931年(昭和6年)に現在の橋に架け替えられた。

 1863年(文久3年)、18歳の頃大垣の久世治作という写真史研究者の家に出入りするようになり、そこで1枚の写真を見せられて写真を志した。1870年(明治3年)同郷の権大参事小野崎蔵男に従って東京に出、その書生として勤めた。ある日、本屋で柳川春三の『写真鏡図説』を見つけて大枚を叩いて購入、さらに京橋竹川町の玉屋という眼鏡店でレンズを購入、写真術を独習した。1871年(明治4年)8月に小野崎蔵男は帰郷したが江崎は横浜に行って1か月程下岡蓮杖、上野彦馬に師事してこれまでの疑問点を解消した後、東京芝日陰町に間借りで写真スタジオを開業したがこれはうまく行かず、生活に行き詰まった。幸い知人に資本金600円を借りることができたため1874年(明治6年)に当時盛り場だった浅草奥山に写真館を移転、10年余の間に奥山でも1、2を争う写真師となった。ここで浅草寺と仲見世の悶着解決を図ったり、後藤庄吉郎と共同で浅草勧業場を開設して産業振興を図る等後に東京市会議員となる素地を作った。

 当時の一般の写真術は湿板写真であり、露光時間が5-15秒必要なだけでなく撮影前に感光材料を全て自分で作らなくてはならず、スタジオ外での撮影時には小型の暗室も持ち歩く必要があった。江崎は1884年(明治17年)5月19日、当時最新の乾板写真により隅田川での海軍短艇競争や水雷の発火演習を撮影し、「早撮りの江崎」として知られることとなった。天体写真や夜間撮影にも成功した。1887年(明治20年)には、息子の礼忠を写真の勉強のためにニューヨークに洋行させた。

 1898年(明治31年)には東京市会議員・市参事会員に選出された。議員時代には東京における高層建築物の先駆けである浅草凌雲閣を発案している。

 江戸三座(えど さんざ)は、江戸時代中期から後期にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋。官許三座(かんきょ さんざ)、公許三座(こうきょ さんざ)、また単に三座(さんざ)ともいう。江戸には当初数多くの芝居小屋があったが、次第に整理されて四座になり、最終的に三座となった。

 三座は江戸時代を通じて日本独自の伝統芸能である歌舞伎を醸成、明治以降も歌舞伎の殿堂として大正末年頃まで日本の演劇界を牽引した。

 歌舞伎の元祖と考えられている出雲阿国や名古屋山三郎が、寺院の境内などで歌舞伎踊りを披露して大評判をとったといわれるのは慶長年間(1596–1615年)のことである。その後、かれらを真似て遊女や若衆たちによる興行が各地の寺院の境内や河原などで行なわれるようになっていったが、江戸府内に常設の芝居小屋ができたのは早くも寛永元年(1624年)のことだった。

 歌舞伎が泰平の世の町人の娯楽として定着しはじめると、府内のあちこちに芝居小屋が立つようになる。しかし奉行所は風紀を乱すという理由で遊女歌舞伎(1629年)や若衆歌舞伎(1652年)を禁止、野郎歌舞伎には興行権を認可制とすることで芝居小屋の乱立を防ぐ方針をとった。芝居小屋の数を制限した大きな理由は、江戸で頻発した火災への対応だった。町屋の中に立つ芝居小屋はひと際その図体が大きいばかりか、構造上いったん火がつくと瞬く間に紅蓮の炎を上げて燃え上がり、周囲の家屋にもたちまち延焼した。当時の町火消しによる消火活動といえば、炎上している家屋やそれに隣接する家屋を打ち壊してそれ以上の延焼を防ぐというものだったため、芝居小屋のような巨大建造物が燃え上がるともう手の打ちようがなかったのである。

 こうして府内の芝居小屋は次第に整理されてゆき、延宝の初めごろ(1670年代) までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座に限って「櫓をあげる」ことが認められるようになった。これを江戸四座(えど よんざ)という。

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