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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

浅草の歴史

浅草文庫 - 浅草の歴史 - 〜江戸

~江戸時代(-1868年)

628(推古天皇)36年

宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)は出家、自宅を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりといわれる。

 堂は六角堂で、本尊は観世音、浅草寺の元地であって、元の観音の本尊が祭られてあった所です。縁起をいうと、その昔、隅田川をまだ宮戸川といった頃、土師臣中知といえる人、家来の檜熊の浜成竹成という両人の者を従え、この大河に網打ちに出掛けたところ、その網に一寸八分黄金無垢の観世音の御像が掛かって上がって来た。主従は有難きことに思い、御像をその駒形堂の所へ安置し奉ると、十人の草刈りの小童が、藜の葉をもって花見堂のような仮りのお堂をしつらえ、その御像を飾りました。遠近の人々は語り伝えて参詣をした。それで駒形堂をまた藜堂とも称えます。そうして主従三人は三社権現と祭られ浅草一円の氏神となり、十人の草刈りは堂の左手の後に十子堂をしつらえて祭られました。

平安時代前期

 名にし負はば いざ言問はむ 都鳥

 わが思ふ人は ありやなしやと

941(天慶4)年

安房国太守・平公雅が、武蔵国への配置転換を祈願。翌年、配置転換の願いが叶ったことから、新天地での天下泰平と五穀豊穣を祈願し伽藍などの寄進。初代「雷門」に相当する門は、その際に造られたとされる。

1590(天正18)年

江戸に入府した徳川家康が、浅草寺を祈願所として定める。

以降、歴代の徳川将軍家に重んじられた浅草寺は、観音霊場として全国より多くの参詣者を集める。

浅草寺弁天山の「時の鐘」が、庶民に日々の時刻を告げる。

1620(元和6)年

幕府が天領他から集めた年貢米・買い上げ米を収蔵するための「浅草御蔵」を設置。(現在の蔵前)

武士に代わって蔵米の受取・運搬・売却を行い、またこれを元手に武士を相手に高利貸しを営む「札差」が台頭。

大富豪となった彼らが豪遊する地として浅草が隆盛、江戸文化が発展。

浅草周辺に全国から武士・商人が集い、江戸で最も人・モノ・金が集まる場となる。

​1627(寛永4)年頃

 これは嘉永四年の話だと思ってもらいたい。君たちも知っているだろうが、江戸時代には観世物がひどく流行った。東西の両国、浅草の奥山をはじめとして、神社仏閣の境内や、祭礼、縁日の場所には、必ず何かの観世物が出る。もちろん今日の言葉でいえばインチキの代物が多いのだが、だまされると知りつつ覗きに行く者がある。

 両国と奥山は定打で、ほとんど一年じゅう休みなしに興行を続けているのだから、いつも、同じ物を観せてはいられない。観客を倦きさせないように、時々には観世物の種を変えなければならない。この前に蛇使いを見せたらば、今度は奚隹娘をみせる。この前に一本足をみせたらば、今度は一つ目小僧を見せるというように、それからそれへと変った物を出さなければならない。そうなると、いくらインチキにしても種が尽きて来る。その出し物の選択には、彼らもなかなか頭を痛めるのだ。殊に両国は西と東に分れていて、双方に同じような観世物や、軽業、浄瑠璃、芝居、講釈のたぐいが小屋を列べているのだから、おたがいに競争が激しい。

1657(明暦3)年

明暦の大火

日本橋の吉原遊郭が焼失。幕府より浅草田圃への移転を命じられ、「新吉原遊郭」が誕生する。

1685(貞享2)年

浅草寺が近隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに、境内で商いをすることを許可。

浅草寺表参道に「仲見世」の前身となる商店が設けられる。

江戸時代中期

浅草寺境内西奥、通称「奥山」地区にて大道芸人などが行われるようになり、庶民の娯楽の場に。

吉原遊郭の案内書(ガイドブック)「吉原細見」、古くは17世紀頃よりあるが、1732年頃から年2回定期刊行となり、1880年代まで約160年間にわたり出版され続ける。

1718(享保3)年、新吉原仲の町の茶屋蔦屋重三郎は折本仕立の細見を6文で売り出して評判を取り、細見蔦屋の名を高くした。

1728(享保13)年、湯島の相模屋与兵衛が「新吉原細見之図」という小本横綴の細見を発行し、評判を取ったので、大伝馬町の鶴喜、神田相模屋、揚屋町三文字屋なども横綴の細見を発行するようになり、大いに流行した。三文字屋細見は廓内における板行として権威を持った。ここに吉原細見の全盛期を現出した。

明和・安永頃

 ――さて江戸芸者の濫觴は、宝暦年中、吉原の遊女扇屋歌扇というが、年あけ後に廓内で客の酒席に侍り、琴三味線を弾きもて酔興をたすけたに因みし、それより下っては明和安永の頃からである。当時の吉原細見に、「芸者何誰外へも出し申候」とあるのに見ても、それは明らかだ。

1774(安永3)年10月17日

「竹町の渡し」があった場所に「吾妻橋」(はじめは、「大川橋」と呼ばれる)が架けられる。江戸時代に幕府によって隅田川に架けられた5つの橋(千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋、吾妻橋)のうち、最後の橋となる。

1795(寛政7)年

「雷門」の名前が書かれた提灯が初めて奉納される。

浮世絵の題材に用いられたことから、「浅草寺雷門」の名前が日本各地に浸透する。

庶民の間で富士信仰が盛んに。

江戸を代表する富士信仰の聖地として、浅草浅間神社へ富士詣。

1822(文政5)年-1835(天保6)年

浅草山谷創業の料亭「八百善」4代目当主・栗山善四郎、「江戸流行料理通」を刊行。

序文を蜀山人、鵬斎(亀田鵬斎)が寄稿、挿画を谷文晁、葛飾北斎らがを描いて大評判に。

江戸土産としても人気を博した。全4編。

1842(天保13)年

江戸三座の芝居小屋が現在の浅草猿若町に移転・集中し、芝居町を形成。

江戸歌舞伎を中心に、浅草の地に庶民の娯楽文化が隆盛を極める。

1853(嘉永6)年

植物園「花屋敷」開園、日本最古の遊園地とされる。当時の敷地面積は8万㎡。

茶人・俳人の集会の場、大奥女中の憩いの場に。

 私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門もこの時に焼けてしまったのです。此所で話が前置きをして置いた浅草大火の件となるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲の町並み、あるいは古舗、またはその頃の名物といったようなものを概略と話して置きます。つまり、火事で焼けてしまっては何も残らないことになりますから——

 まず雷門を起点にして、現今の浅草橋(浅草御門といった)に向って南に取って行くと、最初が並木(並木裏町が材木町)それから駒形、諏訪町、黒船町、それに接近して三好町という順序、これをさらに南へ越すと、蔵前の八幡町、森田町、片町、須賀町(その頃は天王寺ともいった)、茅町、代地、左衛門河岸(左衛門河岸の右を石切河岸という。名人是真翁の住居があった)、浅草御門という順序となる。観音堂から此所までは十八町の道程です。

 

 観音堂から堂へ向って右手の方は、馬道、それから田町、田町を突き当ると日本堤の吉原土手となる。雷門に向って右が吾妻橋、橋と門との間が花川戸、花川戸を通り抜けると山の宿で、それから山谷、例の山谷堀のある所です。それを越えると浅草町で、それからは家がなくなってお仕置場の小塚原……千住となります。

 

 花川戸の山の宿から逆に後に戻って馬道へ出ようという間に猿若町がある。此所に三芝居が揃っていた。  観音堂に向って左は境内で、淡島のお宮、花やしき、それを抜けると浅草田圃で一面の青田であった。  観音堂の後ろがまたずっと境内で、楊弓場が並んでいる。その後が田圃です。ちょうど観音堂の真後ろに向って田圃を距てて六郷という大名の邸宅があった。そのも一つ先になると、浅草溜といって不浄の別荘地——これは伝馬町の牢屋で病気に罹ったものを下げる不浄な世界——そのお隣りが不夜城の吉原です。溜に寄った方が水道尻、日本堤から折れて這入ると大門、大江戸のこれは北方に当る故北国といった。

 それから雷門に向って左の方は広小路です。その広小路の区域が狭隘になった辺から田原町になる。それを出ると本願寺の東門がある。まず雷門を中心にした浅草の区域はざっとこういう風であった。

 私はまだ子供の事とて、師匠の家の走り使いなどに、この界隈を朝夕に往復し、町から町、店から店と頑是もなく観て歩いたもの、今日のように電車などあるわけのものでなく、歩いて行って歩いて帰ることでありますから、その頃の景物がまことに明瞭と、よく、今も記憶に残っております。こうして話をしている中にも、まざまざと町並み、店々の光景が眼に見えるようにさえ思われて来ます。

 雷門に接近した並木には、門に向って左側に「山屋」という有名な酒屋があった(麦酒、保命酒のような諸国の銘酒なども売っていた)。その隣りが遠山という薬種屋、その手前(南方へ)に二八そば(二八、十六文で普通のそば屋)ですが、名代の十一屋というのがある。それから駒形に接近した境界にこれも有名だった伊阪という金物屋がある(これは刃物が専門で、何時でも職人が多く買い物に来ていた)。右側は奴の天麩羅といって天麩羅茶漬をたべさせて大いに繁昌をした店があり、直ぐ隣りに「三太郎ぶし」といった店があった。これはお歯黒をつけるには必ず必要の五倍子の粉を売っていた店で、店の中央に石臼を据えて五倍子粉を磨っている陰陽の生人形が置いてあって人目を惹いたもの、これは近年まで確かあったと覚えている。その手前に「清瀬」という料理屋があってなかなか繁昌しました。その横町が、ちっと不穏当なれど犬の糞横町……これも江戸名物の一つとも申すか……。

 清瀬から手前に絵馬屋があった。浅草の生え抜きで有名な店でありました。何か地面訴訟があって、双方お上へバンショウ(訴訟の意)した際、絵馬屋は旧家のこと故、古証文を取り出し、これは梶原の絵馬の註文書でござりますと差し出した処、お上の思し召しで地所を下されたとかで、此店が拝領地であったとかいうことでありました(並木と吾妻橋との間に狭い通りがあって、並木の裏通りになっている。これは材木町といって材木屋がある)。それから、並木から駒形へ来ると、名代の酒屋で内田というのがあった。土蔵が六戸前もあった。横町が内田横丁で、上野方面へ行くと本願寺の正門前へ出て菊屋橋通りとなる見当——

 内田から手前に百助(小間物店があった。職工用の絵具一切を売っているので、諸職人はこの店へ買いに行ったもの)、この横丁が百助横丁、別に唐辛子横丁ともいう。その手前の横丁の角が鰌屋(これは今もある)。鰌屋横丁を真直に行けば森下へ出る。右へ移ると薪炭問屋の丁子屋、その背面が材木町の出はずれになっていて、この通りに前川という鰻屋がある。これも今日繁昌している。

 駒形は江戸の名所の中でも有名であることは誰も知るところ……何代目かの遊女高尾の句で例の「君は今駒形あたりほとゝぎす」というのがありますが、なるほど、駒形は時鳥に縁のあるところであるなと思ったことがあります。というのは、その頃おい、駒形はまことによく時鳥の鳴いた所です。時鳥の通り道であったかのように思われました。それは、ちょうどこの駒形堂から大河を距てて本所側に多田の薬師というのがありましたが、この叢林がこんもり深く、昼も暗いほど、時鳥など沢山巣をかけていたもので、五月の空の雨上がりの夜などには、その藪から時鳥が駒形の方へ飛んで来て上野の森の方へ雲をば横過って啼いて行ったもの……句の解釈は別段だけれども、実地には時鳥のよく鳴いた所です。そして向う河岸一帯は百本杭の方から掛けて、ずっとこう薄気味の悪いような所で、物の本や、講釈などの舞台に能くありそうな淋しい所であった。

 雷門へひとまず帰って、門へ向って左側、広小路へ出ましょう。

 此所にはまた菜飯茶屋という田楽茶屋がありました。小綺麗な姉さんなどが店先ででんがくを喰ってお愛想をいったりしたもの、万年屋、山代屋など五、六軒もあった。右側に古本屋の浅倉、これは今もある。それから奴(鰻屋)。地形が狭まって田原町になる右の角に蕎麦屋があって、息子が大纏といった相撲取りで、小結か関脇位まで取り、土地ッ児で人気がありました。この向うに名代の紅梅焼きがありました。

 観音堂に向っては右が三社権現、それから矢大臣門(随身門のこと)、その右手の隅に講釈師が一軒あった。

 門を出ると直ぐ左に「大みつ」といった名代な酒屋があった。チロリで燗をして湯豆腐などで飲ませた。剣菱、七ツ梅などという酒があった。馬道へ出ると一流の料理屋富士屋があり、もっと先へ出ると田町となって、此所は朝帰りの客を招ぶ蛤鍋の店が並んでいる。馬道から芝居町へ抜けるところへ、藪の麦とろがあり、その先の細い横丁が楽屋新道で、次の横丁が芝居町となる。猿若町は三丁目まであって賑わいました。

 山の宿を出ると山谷堀……越えると浅草町で江戸一番の八百善がある。その先は重箱、鯰のスッポン煮が名代で、その頃、赤い土鍋をコグ縄で結わえてぶら下げて行くと、 「重箱の帰りか、しゃれているぜ」などいったもの。

 花川戸から、ずっと、もう一つ河岸の横町が聖天町、それを抜けると待乳山です。

「待乳沈んで、梢乗り込む今戸橋」などいったもの、河岸へ出ると向うに竹屋の渡し船があって、隅田川の流れを隔て墨堤の桜が見える。山谷堀を渡ると、今戸で焼き物の小屋が煙を揚げている。戸沢弁次という陶工が有名であった。

 山谷堀には有明楼、大吉、川口、花屋などという意気筋な茶屋が多く、この辺一帯江戸末期の特殊な空気が漂っていました。

 雷門から仁王門までの、今日の仲店の通りは、その頃は極粗末な床店でした。屋根が揚げ卸しの出来るようになっており、縁と、脚がくるりになって揚げ縁になっていたもので、平日は、六ツ(午後六時)を打つと、観音堂を閉扉するから商人は店を畳んで帰ってしまう。後はひっそりと淋しい位のものでした。両側は玩具屋が七分通り(浅草人形といって、土でひねって彩色したもの、これは名物であった)、絵草紙、小間物、はじけ豆、紅梅焼、雷おこし(これは雷門下にあった)など、仁王門下には五家宝という菓子、雷門前の大道には「飛んだりはねたり」のおもちゃを売っていた。蛇の目の傘がはねて、助六が出るなど、江戸気分なもの、その頃のおもちゃにはなかなか暢気なところがありました。

 雷門は有名ほど立派なものではなく、平屋の切妻作りで、片方が六本、片方が六本の柱があり、中心の柱が屋根を支え、前には金剛矢来があり、台坐の岩に雲があって、向って右に雷神、左に風の神が立っていました。魚がしとかしんばとか書いた紅い大きな提灯が下がって何んとなく一種の情趣があった。

 仲店の中間、左側が伝法院で、これは浅草寺の本坊である。庭がなかなか立派で、この構えを出ると、直ぐ裏は、もう田圃で、左側は田原町の後ろになっており、蛇骨湯という湯屋があった。井戸を掘った時大蛇の頭が出たとやらでこの名を附けたとか。有名な湯屋です。後ろの方はその頃新畑町といった所、それからまた田圃であった。

 伝法院の庭を抜け、田圃の間の畔道を真直に行くと(右側の田圃が今の六区一帯に当る)、伝法院の西門に出る。その出口に江戸侠客の随一といわれた新門辰五郎がいました。右に折れた道が弘隆寺、清正公のある寺の通りです。それから一帯吉原田圃で、この方に太郎稲荷(この社は筑後柳川立花家の下屋敷内にある)の藪が見え、西は入谷田圃に続いて大鷲神社が見え、大音寺前の方へ、吉原堤に聯絡する。この辺が例のおはぐろどぶのあるところ……すべて、ばくばくたる水田で人家といってはありませんでした。

1865(慶応元)年12月14日22時

浅草の大火

浅草三軒町から出火。

1865(慶応元)年12月14日22時

 慶応元年丑年十二月十四日の夜の四ツ時(私の十四の時)火事は浅草三軒町から出ました。

 この三軒町は東本願寺寄りで、浅草の大通りからいえば、裏通りになっており、町並みは田原町、仲町、それから三軒町、……堀田原、森下となる。見当からいうと、百助の横丁を西に突き当った所が三軒町で、其所に三島神社があるが、その近所に襤褸屋があって、火はこれから揚がったのだ。

 その夜は北風の恐ろしく甚い晩であった。歳の暮に差し掛かっているので、町内々々でも火の用心をしていたことであろうが、四ツ時という頃おい、ジャン/\/\/\という消魂しいこすり半鐘の音が起った。「そりゃ、火事だ、火事だ」というので、出て見ますと、火光は三軒町に当っている。通りからいえば広小路の区域が門跡寄りに移る際の目貫な点から西に当る。乾き切った天気へこの北風、大事にならねば好いがと、人々は心配をしている間もあらばこそ、火は真直に堀田原、森下の方向へ延びて焼き払って行く。ちょうど大通りの並木に平行して全速力で南進して行くのであった。

 

 一体、浅草は余り火事沙汰のない所故、土蔵など数えるほどしかなかった。それに安政の大地震の際、土蔵というものが余り役に立たなかったことを経験しているので、一層数が少なかった。ただ、酒屋の内田に五ツ戸前ばかり、他に少々あったほどだから、枯れ草でも舐めるようにめらめらと恐ろしい勢いで焼いて行く。一方は諏訪町、駒形方面から、一方は門跡から犇々と火の手が攻めかけて来るのだが、その間は横丁の角々は元より到る処荷物の山で、我も我もと持ち運んだ物が堆高くなっている。それを火勢に追われて逃げて来る人々は、ただ、一方の逃げ口の吾妻橋方面へと逃げ出そうと急っている。片方は大河で遮られているから、この一方口へ逃れるほかには逃げ道はなく、まるで袋の鼠といった形……振り返れば、諏訪町、黒船町は火の海となっており、並木の通りを荷物の山を越えて逃げ雷門へ来て見れば、広小路も早真赤になって火焔が渦を巻いている。雷門から観音堂の方へ逃げようとしても、危険が切迫したので雷門も戸を閉めてしまったから、いよいよ一方口になって、吾妻橋の方へ人は波を打って逃げ出し、一方は花川戸、馬道方面、一方は橋を渡って本所へと遁げて行く。その遁げる人たちは荷物の山に遮られ、右往左往している中に、片ッ端から荷の山も焼け亡せて跡は一面に火の海となるという有様……ただ、もう物凄い光景でありました。

 こんな工合で、風が真西に変って不意打ちを食ったのと、大河に遮断されて逃げ道のないのとで、荷物を出した人などはない。出しには出しても、出した荷は山と積まれたまま焼けてしまうのですから、誰も彼も生命からがら、ただ身一つになって、風呂敷包み一つも持たず逃げ出したもの……実に悲惨なことでありました。

1865(慶応元)年12月14日22時

 火勢はさらに猛烈になって、とうとう雷門へ押し掛けて行きました。

 広小路から雷門際までは荷物の山で重なっているのですが、それが焼け焼けして雷門へ切迫する。荷物は雷門の床店の屋根と同じ高さになって累々としている所へ、煽りに煽る火の手は雷門を渦の中へ巻き込んでとうとう落城させてしまいました。それで雷門から蔵前の取っ付きまで綺麗に焼き払ってしまった上、さらに花川戸から馬道に延焼し、芝居町まで焼け込んで行きました。三座は確か類焼の難はのがれたように思いますが、何しろ、吾妻橋際から大河の河岸まで焼け抜けてしまったのですからいかに火勢が猛威を振ったかは推し測られます。それに、大河を越えて、本所の吉岡町へ飛火をして向う河岸で高見の見物をしていた人の胆までも奪ったとは、随分念の入った火事でありました。

 名代の雷門はこれで焼け落ちましたが、誰か殊勝な人があったと見え、風雷神の身体は持ち出すことは出来なかったが、御首だけは持って逃げました。それが只今、観音堂の背後の念仏堂に確か飾ってあると思います。これはその後になって、門跡前の塩川運玉という仏師が身体を造って修理したのであります。

大火を経て、災害を目的に江戸の町改造が行われる。

火除地として「広小路」が設けられ、「浅草広小路」が誕生。

災害復興のシンボルに。

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