浅草にまつわる、
小説・随筆・詩・俳句。
「浅草とは?」
浅草といふ言葉は複雑である。たとへば芝とか麻布とかいふ言葉は一つの観念を与へるのに過ぎない。しかし浅草といふ言葉は少くとも僕には三通りの観念を与へる言葉である。
第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現れるのは大きい丹塗りの伽藍である。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に焼残つた。今ごろは丹塗りの堂の前にも明るい銀杏の黄葉の中に、不相変鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。
第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く焼野原になつた。
第三に見える浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前――その外何処でも差支へない。唯雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花の凋んだ朝顔の鉢だのに「浅草」の作者久保田万太郎君を感じられさへすれば好いのである。これも亦今度の大地震は一望の焦土に変らせてしまつた。
この三通りの浅草のうち、僕のもう少し低徊したいのは、第二の浅草、――活動写真やメリイ・ゴウ・ランドの小屋の軒を並べてゐた浅草である。
明治の八、九年頃、寺内にいい合わしたように変人が寄り集りました。浅草寺寺内の奇人団とでも題を附けましょうか、その筆頭には先ず私の父の椿岳を挙げます。私の父も伯父も浅草寺とは種々関係があって、父は公園の取払になるまで、あの辺一帯の開拓者となって働きましたし、伯父は浅草寺の僧侶の取締みたような役をしていました。
向島は桜というよりもむしろ雪とか月とかで優れて面白く、三囲の雁木に船を繋いで、秋の紅葉を探勝することは特によろこばれていた。季節々々には船が輻輳するので、遠い向う岸の松山に待っていて、こっちから竹屋! と大声でよぶと、おうと答えて、お茶などを用意してギッシギッシ漕いで来る情景は、今も髣髴と憶い出される。この竹屋の渡しで向島から向う岸に渡ろうとする人の多くは、芝居や吉原に打興じようとする者、向島へ渡るものは枯草の情趣を味うとか、草木を愛して見ようとか、遠乗りに行楽しようとか、いずれもただ物見遊山するもののみであった。
私はよく浅草公園へ出掛けて、所在のない時間をつぶしたものです。
いますね、あすこには。公園といっても六区の見世物小屋の方でなく、池から南の林になった、共同ベンチの沢山並んでいる方ですよ。あの風雨にさらされて、ペンキがはげ、白っぽくなったベンチに、又は捨て石や木の株などに、丁度それらにふさわしく、浮世の雨風に責めさいなまれて、気の抜けた様な連中が、すき間もなく、こう、思案に暮れたという恰好で腰をかけていますね。自分もその一人として、あの光景を見ていますと、あなた方にはお分りにならないでしょうが、まあ何とも云えない、物悲しい気持になるものですよ。
あなたは、十二階へ御昇りなすったことがおありですか。アア、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体どこの魔法使が建てましたものか、実に途方もない、変てこれんな代物でございましたよ。表面は伊太利の技師のバルトンと申すものが設計したことになっていましたがね。まあ考えて御覧なさい。その頃の浅草公園と云えば、名物が先ず蜘蛛男の見世物、娘剣舞に、玉乗り、源水の独楽廻しに、覗きからくりなどで、せいぜい変った所が、お富士さまの作り物に、メーズと云って、八陣隠れ杉の見世物位でございましたからね。そこへあなた、ニョキニョキと、まあ飛んでもない高い煉瓦造りの塔が出来ちまったんですから、驚くじゃござんせんか。
高さが四十六間と申しますから、半丁の余で、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいに、とんがっていて、ちょっと高台へ昇りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化が見られたものです。
汝 観音様よ、
浅草の管理人よ、
君は鳩には豆を我等には自由を――
腹ふくるゝまで与へ給へ、
彼は他人の投げた
お賽銭で拝んでゐた
かゝる貧乏にして
チャッカリとした民衆に
御利益を与へ給へ
われは思ふ、浅草の青き夜景を、
仲見世の裏に洩るる短夜の葱のむせびを、
公園の便所の瓦斯を、はた、澄めるアルボースの香を。
あはれなる蛇小屋の畸形児を、かつは知れりや、
怪しげの二階より寥しらに顔いだす玉乗の若き女を、
あるはまた曲馬の場に息喘ぎ、うちならぶ馬のつかれを。
新しきペンキに沁みる薄暮の空の青さよ。
また臭き花屋敷の側に腐れつつ暗みゆく溝の青さは
夜もふけて銘酒屋の硝子うち覗くかなしき男のみや知りぬらん。
われは思ふ、かかる夜景に漂浪へる者のうれひを、
馬肉屋の窻にうつる広告の幻燈を見て蓄音機きけるやからを、
かくてまた堂のうしろに病める者、尺八の追分ふし。
奥山の四時過ぎの日こそさみしけれ。
あたたかにうち黄ばむ写真屋の古きならびは、
半盲目の病児らの日向ぼこをば見るごとく、
掲げたる鈍き写真のうちにくはせ者の女役者の顔のみ白く、
罎ならぶ窻のそば、露台にダアリヤの花ただひとつ赤けれども、
なべてみな色もなし、入口の静かなる空椅子のうへに、
みよりなき黒猫ぞひとりまた背を高めたる。
見るものの凡てみな『過ぎし日』のごとくさびしく、
疎ましき『忘却』の腐蝕よりのこされしものの痛さよ。
げに、白き横文字はその屋根に、いかがはしけれ、
The Art Photograph とぞ読まれぬる。
……浅草で、お前の、最も親愛な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば広小路の近所とこたえる外《ほか》はない。なぜならそこはわたしの生れ在所である。明治二十二年田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までそこに住みつづけたわたしである。子供の時分みた風色ほど、山であれ河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生って来るものはない。――ことにそれが物ごころつくとからのわたしのような場合にあってはなおのことである。
しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯を持っている。……ということは古く存在した料理店「松田」のあとにカフェエ・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分たれている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の尨大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの飾られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いていよ/\「時代」の潮さきに乗ろうとする古いその町々をはっきりわたしはわたしに感じた。
そこには仕出屋の吉見屋あっていまだに「本願寺御用」の看板をかけている、薬種屋の赫然堂あっていまになおあたまのはげた主人がつねに薬をねっている。餅屋の太田屋あってむかしながらのふとった内儀さんがいつもたすきがけのがせいな恰好をみせている。――宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや。――それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。――それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯、おこそ頭巾をかぶった祖母に手をひかれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。――それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中にどこにももう灯火がちらちらしているのである。――眼を上げるとそこに本願寺の破風が暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである。……
その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぼん横町」といいつづけた。が、たま/\わたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに以前共同厠のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋と舟和との大がかりな喫茶店(というのはもとよりあたらない。といってそも/\の、ミツマメホオルというのもいまはもうあたらない。ともにその両方がガラスの珠すだれを店さきに下げたけしき――この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびをいさましくそこに物語っている。
角、「たつみ食堂」と称するもののいまあるところに「梅園館」という勧工場があった。――そこを「仲見世」へ出たわたしは、そのまま左へ仁王門のほうへ道をとった。その時分からあったのがいまの「大増」の手まえを木深くおくへ入った「大橋写真館」である。「大増」のところには、その時分、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた「万梅」があった。……とだけでは何のこともない、いまも立ならぶ大きなあの榎のかげに、手堅い、つつましい、謙遜な、いえばおのずからそれが江戸まえのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとをみせていた。そこの石だたみだけつねにしぐれた感じだった。――ことにはそこに、その榎の下に、いつも秋早くから焼栗の定見世の出ることが、虧けそめた月の、夜長夜寒のおもいを一層ふかからしめた。――「仲見世」というところはときにそうした景情をもつところだった。
「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢竟この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。
――改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町――田町から山谷……「吉原」の廓に近いそれらの町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。
田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、「仲見世」をふくむ「公園」のほとんどすべて、新谷町から千束町象潟町にかけての広い意味での「公園裏」……蔓のように伸び、花びらのように密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てらさた。
……「池のまわりの見世物小屋」こそいまのその「新しい浅草」あるいは「これからの浅草」の中心である……
が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一トたび焦土に化したのである。ともに五年まえみじめな焼野原になったのである。――というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえによみ返ったそれらである。ふたたび生れいでそれである。――しかも、あとのものにとって、かつてのそのわざわいは何のさまたげにもならなかった。それ以前にもましてだん/\成長した。あらたな繁栄はそれに伴う輝かな「感謝」と「希望」とを、どんな「横町」でもの、どんな「露地」でものすみ/″\にまで行渡らせた。――いえば、いままで、「広小路」を描きつつ、「仲見世」に筆をやりつつ、「震災」の二字のあまりに不必要なことをひそかにわたしは驚いたのである……
最後までふみとどまった「大盛館」の江川の玉乗、「清遊館」の浪花踊り、「野見」の撃剣……それらもついにすがたを消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月」だの「松井源水」だの「猿茶屋」だのを決してもうわたしは思い出さないのである。「十二階」の記憶さえ日にうすれて来た。無理に思い出した所でそれは感情の「手品」にすぎない。)
飲んだり食ったりのうえでも、「八百善」「大金」のなくなった今日(「富士横町」の「うし料理」のならびにあるいまの「大金」を以前のものの後身とみるのはあまりにもさびしい)わずかに「金田」があるばかりである。外に「松邑」(途中でよし代は変ったにしても)と「秋茂登」があるだけである。かつての「五けん茶屋」の「万梅」「大金」を除いたあとの三げん、「松島」は震災ずっと以前すでに昔日のおもかげを失った、「草津」「一直」はただその尨躯を擁するだけのことである。――が、たった一つの、それだけがたのみのその「金田」にして「新しい浅草」におもねるけぶりのこのごろ漸く感じられて来たことをどうしよう……
――あさアり……からアさり……
で、どこからともなく聞えて来る夕とゞろきのなかのその美音……
――大丈夫だ、この塩梅なら……
――もつよ、まだ、この天気は……
屋台のぬしは、それ/″\の車を押しながら、をり/\さうしたことを言葉ずくなにいひ合つた。
蝙蝠。……夕あかり。……星。……そして夜店……
電車の行交ひもいまのやうに激しくなかつた。人通りも、また、いまのやうに目まぐるしくなかつた。そのまゝ白くその一日はしづんだ。……といふものが浅草の広小路。……二十年まへの、わたしの育つたころの浅草の広小路。……どこのうちでもまだ瓦斯をつけてゐたそのころのけしきの一部である。
いまなら、さしづめ、傾いた月の、明易く曳いた横ぐもの、ふか/″\とこめた梅雨どきの蒼い靄の、さうしたいろ/\の触目のあはれは、夜店の、夜あかしの、さうしたいろ/\の喰物やの屋台の外にこれをみ出して、一層そこに強められ、あるひはふかめられるだらう。……そのいのちに触れるからである。うきくさのその果敢ないいのちにはツきり触れるからである。……といふことは、わたしをしていまいはしめよ。夜店の、夜あかしの、さうした喰物やこそ、休息した東京の、疲れ果てた東京の、見得も外聞もふり捨てた東京の、うそもかくしもないそのすがたをさういつても寂しく語るものである。
浅草の 辛子の味や 心太
向島に住んだ頃は、浅草へ行くというのが何よりの楽しみでしたけれど、歩いて行く時は、水戸様の前から吾妻橋を渡って、馬道を通って観音様の境内へ入るので、かなりの道なのです。でなければ渡しを渡って花川戸へ出て、待乳山を越して、横手から観音様へ這入ります。母や祖母と出ると時間もかかりますし、留守居も頼まねばならぬので、たまたまにしか連れて行ってもらわれません。
戦争中の浅草は、ともかく、私の輸血路であった。つまり、酒がのめたのである。
「染太郎」というオコノミ焼が根城であったが、今銀座へ越している「さんとも」というフグ料理、これは大井広介のオトクイの家、それから吉原へのして、「菊屋」と「串平」、酔いつぶれて帰れなくなると、吉原へ泊るという、あのころは便利であった。
タロちゃん(淀橋太郎)なども、興行師だから、私と飲んでいるうちにも、目の玉のギロリと見るからに一癖ある大人物の浪花節やら、漫才やらそんなのが膝すりよせてヒソヒソと何か打合せに来たり、可愛いゝ踊子さんが役を頼みにきたり、そこで私は大喜びで、 「ちょッと/\」 大慌てに、あなたは帰っちゃいけません、先ず、飲みましょう、とオシャクをして貰う。これが浅草のよいところで、一パイ飲みましょう、とたのんで、イヤだなどゝ云う人は、昔から一人として居たタメシがなかったのである。まことにツキアイがよい。こゝが浅草の身上である。その代り、酔っ払って、口説いて、ウンと云ってくれた麗人は一人もいなかった。然し、決して男に恥をかゝせるような素振りはしないところが、また、よろしいところで、男は酔っ払えば女の子を口説くにきまったものだと心得きっていられるところ、まことに可憐で、よろしい。
浅草の男の子も、立派なもので、私がもっぱら女優部屋専門にお酒をのみに侵入しても、それが当然と心得ており、なまじ男優部屋へ顔をだすと、薄気味わるがるような仕組みになっており、お門が違いましょう、という面持である。
浅草もちかごろは変ったそうだ。お客が変った。 タロちゃんの言葉によると、終戦後、日本が変ったと人々は云う。然し、どこがどう変ったかとなると、誰もハッキリこうだと云えないものであるが、その日本の変りという奴をイヤというほどハッキリ見せつけられるのが、浅草のお客だそうである。
だが、浅草というところは、これぐらい気軽に酒の飲めるところはない。女優さんのみならず、男の芸人たちも、それぞれ仁義ある小悪党で、罪を憎まず、人の弱さを知り、およそ暴力を知らない平和人ばかりである。彼らの世界には幾多の恋や情痴はあっても、暴力というものはないだろう。ドサ廻りの悲しさが、いつもつきまとっている浅草人の表情は、酒の心にしみるものがあるのである。
浅草には絵描きはいないが、浅草は東京のモンパルナスとかモンマルトルというところで、浪流と希望の魂のはかない小天地である。
こういう性格は、文化都市の一つの心臓として欠くべからざるもので、文化のあるところ、必ずつきまとうもの、これが失われては、浅草はない。
やっぱり、芸の身の入れ方が足りなかったのだろうと思う。モンパルナスやモンマルトルは、ある意味では、落伍者の街で、浅草も亦、落伍者の街であるが、浅草には落伍者の誇りがない。それだけモンパルナスやモンマルトルよりも低いのである。
つまり、浅草は、たゞドサ廻りの悲哀のような、落伍者的情緒にすがっているだけで、落伍者を誇り、世にみとめられざる我が万能をやむような骨がない。それだけ、彼らが、芸一途にすがっていない証拠である。本来二流三流に甘んじて、悲哀の情緒をふるさとにしているだけなのである。
落伍者の背後に一流の矜持が隠されているようになれば、浅草はおのずから復興する。
友人に誘われて、一度吉原の情緒を覚えてから、私の心は飴のように蕩けた。
しまいには、小塚っ原で流連するようになった。朝、廓を出て千住の大橋のたもとから、一銭蒸気に乗って吾妻橋へ出るのが、私の慣わしであった。蒸気船が隅田川と綾瀬川の合流点を下流の方へ曲がる時、左舷から眺めると、鐘ヶ淵の波の上に『みやこ鳥』が浮いていた。楽しそうに水面に群れていたみやこ鳥は、行く蒸気船に驚いて二つの翅で水を搏った。そして、乗客の眼の上高く舞いめぐる白い腹の下を、薄くれないの二つの脚が紋様に彩って、美しかった。
船は今戸の寮の前を通った。間もなく、船が花川戸へ着くと、私はそこから、仲見世の東裏の大黒屋の縄暖簾をくぐり、泥鰌の熱い味噌汁で燗を一本つけさせた。
浅草趣味は老若男女貴賤のいずれとも一致する、したがって種々に解釈され、様々に説明される。
少年少女の眼には仲見世と奥山と六区とにかれらの趣味を探ぬべく、すなわち彼処にはおもちゃ屋と花やしきと見世物とがある。青年男女には粂の平内と六地蔵と観音裏とにその趣味を見出すべく、すなわち其処には願がけの縁結びと男を呼ぶ女と、女に買わるる男と、銘酒屋と新聞縦覧所と楊弓店と、更には大金と一直と草津とがある。独り老男老女に取っては伝法院と一寸八分の観世音菩薩と淡島様とに彼の趣味を伴う。ここには説法と利生とあらたかとが存する。
浅草に現はれる乞食は、みなそれぞれに風格を具へてゐるので愉快である。乞食といふ称呼をもってする事は、この諸君に対してはソグハないやうな気がするくらいだ。いかにこれらの諸君が人生の芸術家であるか、また、浅草を彩るカビの華であるかといふことについて語らう。
浅草といふ舞台には、かかる登場者が順次に現はれ、消えてゆく。
指がなくて三味線を弾く男――。彼はロハベンチに腰を掛けてゐる。左の手の指が四本ない。残った拇指で、煙管の半分に折れた吸口の方を挟み、その吸口の膨れた部分、凹んだ部分を巧みに利用して絃をおさへる。バチの代りにマッチの棒で弾く。
「そんなに喜んぢゃいけない、笑ひ事じゃアない。みんなつまらない事なら喜んでるから困るねえ。小説だの講談だのでも、樋口苦安だの、三日目落吉なンて、飴に黒砂糖なすったやうな、ベトベトねつッこいのを嬉しがってるんだからねぇ。世の中の行進は、科学的に小細工を積み重ねてゆくんだから、みんな科学者にならなければ駄目だ。でなければ引ッ込んで瞑想家になるか、浅草の乞食になるかだよ」
たとえば学校の小使部屋などによくある大きな火鉢、――特に小使部屋などというのは、あまり上等でない火鉢を想像して貰いたいからであるが、その上に大きな真黒なテカテカ光った鉄板を載せたものの周りを、いずれも一目見てこれもあまり上等の芸人でないと知れる男女が、もっとも女はその場に一人しかいなかったが、ぐるりと眼白押しに取り巻いて、めいめい勝手にお好み焼を焼いていた。
大体その「風流お好み焼――惚太郎」の家に出入する客は、惚太郎が公園の寄席の芸人である関係から、芸人が多く、そしていつも定った顔触れの、それもあまり多数ではない常連ばかりだったから、私は一回り顔を見知っていたが、その日の客は初めて見る顔ばかりであった。何か惨めな生活の垢といったものをしみ込ませたような燻んだ、しなびた、生気のない顔ばかりで、まるでヘットそのものを食うみたいな、豚の油でギロギロのお好み焼を食っていながら、てんで油気のない顔が揃っていた。そしてその顔の下に、へんにどぎついあさましい色彩の、いかにも棚曝しの安物らしいヘラヘラのネクタイやワイシャツをつけていて、それらは、それらの持主の人間までを棚曝しの安物のように見せるのにみごとに役立つのであった。――さよう、こうした私の書き振りは、その人々を見た時の私の眼に蔑みと反感が浮んでいたかのように、読者に伝えるかもしれないが、事実はまさに反対なのである。私の眼には、――その人々を見るとたちまち私のうちに湧き上ってきた、なんとも言えない親愛の情、なごやかな心の休い、それらのもたらした感動がありありと光っていたに違いないのである。
二人ともしばらく黙って突き立っていた。するうちえたいのしれない焦燥が私のうちに燻りはじめ、美佐子のうちにもひとしく何か焦燥が燻り出したらしいのが私に感ぜられた。美佐子が突然、突っかかるように言った。
「倉橋さんは、なんで浅草をブラブラしてんの?」
「――さあ」正面切って説明するのが億劫だったので、言葉を濁した。
「ネタ取り?」
「そうじゃない」
これは、はっきり言った。
「じゃ、なアに」
「――浅草が面白いからさ」つい、出まかせを言った。すると美佐子は顔をしかめた。暗いなかでもはっきりとわかるしかめ方であった。そしてきびしい調子で、おたくは猟奇の気持で浅草をブラついているのかと言った。――猟奇という言葉を初め耳にした時、私はそれとわからないで、え? と首をかしげたが、あ、そうかと気づくと、珍しい言葉にめぐり合った感じが微笑を呼び、黙って微笑していた。美佐子は靴先をコツコツと鳴らしながら、
「但馬は猟奇趣味で浅草を見る人を、とても嫌っていたわ」と言った。
但馬はと美佐子が言うのが、いかにも私には唐突の感じだったので、「ふーん。但馬さんがね」と私は言った。(その後、しばしばそうした唐突さに会っているうちに、私は慣れて、唐突を感じなくなったが、それと共に、美佐子のそうした唐突さは、彼女の心のうちに、何かというと但馬が入ってくる、知らないうちに彼女のなかに但馬が坐っている、そうしたことから来ているものと知らされた。)
「ええ、但馬はそういう人を、とても憎んでいたわ」
美佐子は彼女も但馬と同じ気持らしいのを語調に出してズケズケ言った。
「――但馬がもし浅草にいて、おたくに会って、おたくの猟奇趣味を知ったら、きっとカンカンに怒ったに違いない」
そう言われて、私はあわてた。私はいわゆる猟奇的な気持で浅草へ来ているのではないと、そこで弁解したが、しかし――浅草のアパートに部屋を借りたのは、仕事をするためという理由を立てているが、浅草を見る私の眼には幾分猟奇的なものがないと言えない。それだけに、そう言われると、浅草へ来はじめてからすでに半年経った現在、何か半分だけ自分が浅草の内部の人間のような気持になっている私として、但馬が浅草を猟奇的に見る外部の人間に対して憤怒と憎悪を持つというその気持は、私にわからないではなかった。だが私は、わからないような顔をして、美佐子に、どうして但馬さんは怒るのかと訊いた。但馬という人物に、私はとみに何か興味を覚えさせられた。見当のついている、但馬の怒るわけよりも、そうして美佐子から但馬の人柄を聞き出したい気持だった。
美佐子の返事は曖昧で、不満足なものだった。曖昧さはうまく言えないところから来ていた。うまく言えないで苛立ち、苛立つと余計うまく言えなくなるのだったが意味はわかった。意味はわかっても、但馬の人物を知ろうとした私の想いは満足させられなかった。
こっちが真剣に生きているその生活を、はたから何か興味的な眼で覗かれては、肚が立つのも当然ではないか。約めればそういう意味だったが、それをうまく言えないことが、何か不機嫌な美佐子をいよいよ不機嫌にした。
そして、――そのくせに、私は浅草をうろついて、一見すべての人に対して申し訳ないような、ぐうたらな生活を送っていた。私が浅草のアパートに部屋を借りた理由は、前に述べた。だが、盛り場はいろいろとあるのに、なぜ特に浅草を選んだかということについては述べなかった。私はそれまで、盛り場としては銀座を愛していたが、とみに銀座や銀座的なもの、私のうちにおける銀座的なものに嫌悪を覚え、同時に、浅草は民衆の盛り場というぼんやりした(いい加減な)概念に惹かれて、私は浅草へ来たのだ。私はそこで、民衆の群のなかに自分を置きたいと思った。(これも、いい加減な概念的なものだった。)――民衆の持っている素朴さ、率直さ、強靭さ等々で自分の神経を揉んで、ヒステリーを直したいと思った。だが……。
――私は朝野に、仕事がうまく行かないと言った。すると、朝野はわが意を得たりといった顔で、
「浅草の空気は僕らにはいかんです」
僕らというのに特に力を入れて、断乎として、何か噛み付くみたいに言った。
「浅草は人間をぐうたらにさせて、いかんです。――浅草では、ふうッとしていても、生きて行かれますからね。こいつが、いかん」私の浅草生活が本格的になることは感心できないと朝野が言った意味がわかった。「――僕がいい例ですよ。全くもって、いい例だ。浅草に毒された、浅草の空気にすっかり台なしにされたいい見本ですわ」
朝野は煙草のやにで黒くなった汚い歯をむき出して笑った。――朝野は以前いい小説を書いていたが、この数年何も発表しなくなった。(いや、その都度ちがう変名で雑文を書いて、それで生活していた。それも最低生活費を稼ぐだけで、それ以上何も書こうとしなかった。)そうしたことを朝野は、(私には真偽のほどはわからないが)浅草に移り住んで、浅草のなかに沈没したせいにした。そうして、朝野は人間を無気力にさせる浅草を呪いながら、浅草から離れようとしなかった。
――泡盛屋はスタンドの前に五六人並ぶといっぱいになる狭い店で、肥った婆さんがひとりでやっていた。娘を映画俳優に嫁がせていて、この婿は今はまるで不遇だが、もとはちょっと売り出しかけたことがあり、そんな関係からか、高田稔などから贈られた、でも今はすっかり色の褪せた暖簾がかかっていた。店の客も公園の小屋の関係のものが多かった。そこは、生粋の琉球の泡盛を売っていて、出港税納付済――那覇税務所という紙のついた瓶が、いくつも入口に転がっていた。浅草の連中は、インチキな酒類を平気で楽しんで飲むが、それは騙されて飲むのではなく、インチキと承知の上のことで、だから泡盛のほんもの、うそなどということの舌での鑑定にかけては、商売人はだしである。朝野がその一人であった。朝野は、婆さんと「来たぞ」「おや、騒々しいのが来た」といった口をきき合うなじみであった。婆さんは、それが商売上手の口なのだろうが、まるで客扱いなどしないぞんざいな口をきいた。
ああ私はどんなに熱烈な、それこそバカみたいな想いを小柳雅子に寄せていたことか。その小柳雅子にとうとう会うことができた、その結果がこんなとは、――こんな切ない悲しみ、こんな落莫とした疲れとは、――こりゃ一体どういうのだ。折からの出盛りの映画館街の人波のなかで、私は腑抜けみたいな顔をかしげていた。このときほど私は、かねて私のひそかに愛していた、雑踏のなかの孤独、群集のなかのひとりぽっちというのを、はっきりと、しかも思わざる痛苦をもってあざやかに感じたときはない。
浅草から遠ざかっていること何日くらいであったろうか。私のうちにようやく浅草に対する一種の郷愁的感情が鬱積してきた。またぞろ浅草へ行きたくなった。それは初めは、なんとなく浅草へ行きたいなアといった漠然とした想いだったが、それがやがて、浅草へ行ってああもしたい、こうもしたいといった具体的な欲望へと進んで行った。それは異郷に身を置いた人が、たとえば、――パリパリと音のする快い歯応えの沢庵でお茶漬をひとつさらさらッと食いたいなといった欲望のうちに、ノスタルジアの具体的なものを感ずるのに似ていたが、しかし私にとって浅草は逆に外国なわけであるから、ヘンな工合である。すなわち郷愁というよりやはり憧憬というべきであるかもしれぬ。けれど気持としては、憧憬というより郷愁というのにずっと似たものなのであった。
場面は、――綴り方の女生徒のおとッつぁんのブリキ屋の職人が、大晦日だというのに親方から金が払って貰えず、一文無しで正月を迎えねばならない。人のいいおとッつぁんは家へ帰って家族と顔を合わせると、苦痛に狂ったようになって暴れ回る。そうした場面になったが、ドタバタ騒ぎの場面にひきかえ、シーンと静まり返っている客席の雰囲気に、私は、おや? と思った。丸の内で見たときは、ここで丸の内の客たちがドッと笑ったのである。たとえば、かけ取りの苦労も経験もないサラリーマンとか、一文無しになっても寝て待っていれば親もとから金を送って貰える学生とか、江東の長屋など生れてから見たこともないにちがいない金利生活者とか、そういった丸の内の客は大晦日の悲劇を見てワッハッハと笑ったのである。さよう、かく言う私もいくらか笑ったのだが、ブリキ屋のおとッつぁんに扮した役者の狂乱的演技はいくらか喜劇的でもあったのだ、だがそのおかしさに、浅草の客は決して笑わないのであった。笑わないどころか、見ると、私の前の、何かの職人のおかみさんらしいのが、すすけた髪のほつれ毛が顔にかかるのにかまわず肩掛けで眼を拭っているのである。あちこちから啜り泣きが聞える。
(おお、浅草よ。)
私は感動に胸を締めつけられながら、浅草というものに、――その実体はわからない、漠然としたものだが、浅草というものに、手をさしのべたかった。さしのべていた。
(やっぱり浅草だ。)
思わずそう心の中でつぶやいた。何か宙に浮いたような、宙で空しくもがいているような私を救ってくれるのは、浅草だ、やはり浅草に来てよかった、そんな気がしみじみとした。私は泣きたかった。うれしいのだ。――泣いていた。だが、それは浅草の客と一緒に映画に泣いていたのだ。私は浅草というものに対して涙を流したかったのだ。
私は、――フワフワと漂うばかりであったのだが、何かに、やっとぶつかった、縋れた、その何かはまだよくわからない、真に縋るべき何かであるか、縋って果して救われる何かであるか、それはわからないまでも、それに縋って進んで行けば、そうだ、私は「頭の上に帽子をのせる」ことができるだろうと、そんな気がするのだった。ヘンな言葉だが、わけを話すならば、いつか酔っ払いが道に落した帽子を拾いあげて頭にのせながら「――帽子の下に頭がある」とどなっていた。それだけ行きずりの私の耳に入ったので、酔っ払いはその前に何を言っていたのか、それは知らない。何か前にあるのであろうが、そのヘンな言葉はそれだけで充分私の興味を捉え、私の頭に沁みた。
「帽子の下に頭がある。……」
こんな歌か何かあるのかもしれぬ。くだらない悪ふざけの文句かもしれないが、私には意味深長に響いた。
「帽子の下に頭がある。
洋服のなかに人間がある」
いつか私はそうつぶやいていた。頭の上に帽子があるべきである。帽子は人間がかぶるべきものであり、人間の頭のために存在する帽子であるべきだが、帽子のための頭、――そんな人間がいはしないか。帽子、――これはおもしろい象徴だ。
「帽子の下に頭がある」
これはおもしろい言葉だ。おもしろがっていると、言葉の鞭がピシリと私を打った。そうだ、この私が、帽子の下に頭があるような人間ではなかったか。少くともそんな場合が往々ありはしなかったか。……
私はK劇場を出ると、
「雅子に会いたいな。でもひとりでは楽屋へ行けない。やっぱり朝野君がいてくれないと……」
そんなことを心の中でつぶやくと、朝野の顔がぐッと私に迫った。私を憎々しく睨んでいる顔、――つづいて美佐子の「なんで浅草をブラブラしてんの」と言った時の顔が……。
私はそこに、浅草が私を見る顔を、見たような気がした。私が手をさしのべても、その手をうけつけない浅草の顔。私は、K劇場での感動そのものまでが何か浅薄な感激だったようにも思い直されて来た。
耳をすましていると、これは雨雲の低く垂れた夜に時々あることなのだが、はるかかなたの上野駅のあたりから、ボーボーという汽笛の音がかすかに聞えてきた。
(旅に出たい。)
ふと痛切に感じた。だが、この旅に出たいという気持は私のうちにずっと燃えていたものだ。そうだ。私が浅草に来たのは、一種の旅ではなかったのか。私は、それにその時初めて気づいたのであった。
こういう工合に銀座の女たちがランデヴーに浅草を利用しているのに、ひょっこりぶつかるのは、これが初めてではなかった。そして女も私も双方とも、この場合のように気まずい思いをするのは、これでもう何度目ぐらいか。かくて私は、銀座の女たちが、浅草だったら、店の客に会わないだろう、店へ来てうるさい噂を立てるようなのに会う心配はないだろう、そう思って、浅草をあいびきの場所に選んでいることを知ったのだが、私の存在はその安心にいやな翳を投じたのであり、そしてまた顔をそむけられたことによって私はくだらぬ噂を立てるようなくだらぬ客のひとりと見られたことをも知らねばならなかった。ところで話は変るが、おかしなことに銀座の女が浅草へくると一方、浅草の地下鉄横町の喫茶店の女たちは、公休というと、銀座へ出かけて行き、これは必ずしもあいびきではなく、映画見物の楽しみを楽しみに行くのだが、映画なら手近の六区で見たらよさそうなものを、わざわざ丸の内に赴くのである。ある時私は、おかしいということを、その女たちの一人に言ったら、
「――だってェ、感じが出ないわ」
颯爽とこう答えた。私は、わかるようなわからないようなうなずきをしたが、つづいて、その見る映画も洋画でないと「感じが出ない」由を知らされ、私はさらにわからないようなわかるようなうなずきをした。
浅草に部屋を借りてもう半年以上になっているのに、私はどうした加減か、仲見世とか観音様の境内とか、それから六区の映画館街とか(これは前に書いたような理由はあるが)、つまり浅草の正式の顔といったようなところはあまり歩いたことがなく、私のぶらつくところはおおむね背中のような腋の下のような指の間のような裏通り、時とすると……のような辺であった。仁王門へ向け、浅草の花道のような仲見世を堂々と(?)歩くのは珍しいことであった。
私の十四歳の暮、すなわち慶応元年丑年の十二月十四日の夜の四ツ時(午後十時)浅草三軒町から出火して浅草一円を烏有に帰してしまいました。浅草始まっての大火で雷門もこの時に焼けてしまったのです。此所で話が前置きをして置いた浅草大火の件となるのですが、その前になお少し火事以前の雷門を中心としたその周囲の町並み、あるいは古舗、またはその頃の名物といったようなものを概略と話して置きます。つまり、火事で焼けてしまっては何も残らないことになりますから——
まず雷門を起点にして、現今の浅草橋(浅草御門といった)に向って南に取って行くと、最初が並木(並木裏町が材木町)それから駒形、諏訪町、黒船町、それに接近して三好町という順序、これをさらに南へ越すと、蔵前の八幡町、森田町、片町、須賀町(その頃は天王寺ともいった)、茅町、代地、左衛門河岸(左衛門河岸の右を石切河岸という。名人是真翁の住居があった)、浅草御門という順序となる。観音堂から此所までは十八町の道程です。
観音堂から堂へ向って右手の方は、馬道、それから田町、田町を突き当ると日本堤の吉原土手となる。雷門に向って右が吾妻橋、橋と門との間が花川戸、花川戸を通り抜けると山の宿で、それから山谷、例の山谷堀のある所です。それを越えると浅草町で、それからは家がなくなってお仕置場の小塚原……千住となります。
花川戸の山の宿から逆に後に戻って馬道へ出ようという間に猿若町がある。此所に三芝居が揃っていた。 観音堂に向って左は境内で、淡島のお宮、花やしき、それを抜けると浅草田圃で一面の青田であった。 観音堂の後ろがまたずっと境内で、楊弓場が並んでいる。その後が田圃です。ちょうど観音堂の真後ろに向って田圃を距てて六郷という大名の邸宅があった。そのも一つ先になると、浅草溜といって不浄の別荘地——これは伝馬町の牢屋で病気に罹ったものを下げる不浄な世界——そのお隣りが不夜城の吉原です。溜に寄った方が水道尻、日本堤から折れて這入ると大門、大江戸のこれは北方に当る故北国といった。
それから雷門に向って左の方は広小路です。その広小路の区域が狭隘になった辺から田原町になる。それを出ると本願寺の東門がある。まず雷門を中心にした浅草の区域はざっとこういう風であった。
私はまだ子供の事とて、師匠の家の走り使いなどに、この界隈を朝夕に往復し、町から町、店から店と頑是もなく観て歩いたもの、今日のように電車などあるわけのものでなく、歩いて行って歩いて帰ることでありますから、その頃の景物がまことに明瞭と、よく、今も記憶に残っております。こうして話をしている中にも、まざまざと町並み、店々の光景が眼に見えるようにさえ思われて来ます。
鳩ぽっぽ、 鳩ぽっぽ。
ぽっぽぽっぽと、 飛んで来い。
お寺の屋根から、 下りて来い。
豆をやるから、 みなたべよ。
たべてもすぐに、 かへらずに。
ぽっぽぽっぽと、 鳴いて遊べ。
婆さんも彼を得たことを悦んでゐる。そこで、つらいことではあらうが、爺さんがあんなにも好きな義太夫の寄席へも、ひよつとして息子の家から探しに来ないものでもないと、断然行くことを禁じて了つた。そして、日本物の活動写真か、布ぎれ一枚だけが舞台装置である安歌舞伎を見ることを彼にすすめるのであるが、爺さんも、そのことをもつともと思つて、子供の遊び友だちになつてやつたり、それが寝て了ふと、公園をぶらりと歩いて日本酒を一本だけ飲んで帰ると云ふ風である。そして、横びんからつづいて銀色のヒゲのはえてゐる顔を、首すぢまでも真赤にして、今晩は、とおとなしく部屋に入つて来るのである。
安酒場——お銚子一本通しものつき十銭、鍋物十銭の、実に喧騒を極めた——女たちの客を呼び込む声、泥酔した客たちの議論、演説、浪花節、からかひと嬌声、酒のこぼれ流れてゐる長い木の食卓、奥の料理場から、何々上り!と知らせる声なぞの雑然とした——安酒場
皆はこの堅い男を変人だと呼んで特別扱ひをしてゐて、それは彼を益々孤独にし、人づきあひを下手にさせて行くのに役に立つたのであるが——彼とても、気のあつた相手があれば大いに談ずるだけの熱情は持つてゐる。かつて一人の板場が病気になつたので、助に来た若い男があつたが、お互ひに久保田万太郎の愛読者であることを発見して、二人して大いに彼の芸術を論じたことがある。彼は自分がなかなか饒舌であることを知つて驚いた程であつた。そして、知らず識らずに昂奮して来、声も上づつて眼がしらにも涙をためて、如何に料理すると云ふことも芸術であるか、これを客に提出するための配合を考へるのも芸術的な悦びを味はさせるものかと力説したのである。そして、相手の遠慮するにも拘らず、ビールをおごらねば気がすまなかつた。彼自身は一滴も口にせず、飲めよとすすめるのであつた。
しかし、自分も時にはそのやうに快く昂奮できるのだと知つた悦びは、翌日冷静になつた時、今月分の小遣銭をすでに費消して了つた後悔のために相殺されてゐた。そして、暫くの間、そのことをクヨクヨと、つまらないことをしたものだと思つてゐた。
その彼がはじめて女を知つたのであるが、それは、同じ店に働いてゐる女中であつた。揃ひのケバケバしい新モスの着物に、赤い前掛をかけた彼女たちは、客の給仕に一日動き廻つてゐる。喧しい店のことであるから、料理場にものを通したり、表を通る客に声をかけるに大きな声を張りあげるので、彼女たちの咽喉はつぶれて、それが店内に濛々としてゐる煙草の煙のために一層荒れて了つてゐる。だから、冗談を云ひかける客には、思ひもつかぬ嗄れて太くなつた声で応酬して驚かすのである。——そして、終日銚子を指でつかんだり、料理皿を掌にのせて、日和下駄で湿つぽい店の土間を絶間なく、お互ひにぶつかりさうになりながら、忙しく動いてゐる。食事はかはるがはる裏の炊事場に出てする。たすきもかけて立つたまま、棚に菜皿をのつけて、冷い飯を掻き込むのである。大急ぎで済ますと、彼女たちはきまつて小楊枝で歯をせせり、それを投げ棄てて、便所にはひつて用を足す。それから、再び店へ戻つて客の註文を聞き、高い声で、料理場に叫びかけるのである。——
淺草も變つた。仲店の、あれも虎の門や上野の博物館や銀座や十二階とおなじ時分に出來たと思はれる赤煉瓦の長屋の文明開化趣味も、もうなくなつた。いま新しく建築中だがこんどはどんなものになるだらう。安い西洋菓子のやうな文化建築をデコデコと建て並べなければ好いと案じられる。仁王門のわきの久米の平内から辨天山のあたりは、やはり昔ながら、木立が芽を出して、銀杏の木も火にも燒けずに青い葉をつけてゐる。觀音堂の裏の、江崎寫眞館も赤煉瓦だけ昔のまま殘つたがあのあたりはすつかり變つたものだ。どぶを隔てた金田の前の廣い道も、どぶのわきの柳の並木も、燒かれて伐られて昔の面影はない。花屋敷のうらから十二階へ拔ける。裏路のわきの泥溝も今は跡がない。
人ごみ。喧噪。他生の縁あってここに集い、折も折、写真にうつされ、背負って生れた宿命にあやつられながら、しかも、おのれの運命開拓の手段を、あれこれと考えて歩いている。私には、この千に余る人々、誰ひとりをも笑うことが許されぬ。それぞれ、努めて居るにちがいないのだ。かれら一人一人の家屋。ちち、はは。妻と子供ら。私は一人一人の表情と骨格とをしらべて、二時間くらいの時を忘却する。
浅草に行きたく思った。浅草に、ひさごやというししの肉を食べさせる安食堂があった。きょうより四年まえに、ぼくが出世をしたならば、きっと、お嫁にもらってあげる、とその店の女中のうちで一ばんの新米、使いはしりをつとめていた眼のすずしい十五六歳の女の子に、そう言って元気をつけてやった。その食堂には、大工や土方人足などがお客であって、角帽かぶった大学生はまったく珍らしかった様子で、この店だけは、いつ来ても大丈夫、六人の女中みんなが、あれこれとかまって呉れた。人からあなどりを受け、ぺしゃんこに踏みにじられ、ほうり出されたときには、書物を売り、きまって三円なにがしのお金をつくり、浅草の人ごみのなかへまじり込む。その店のちょうし一本十三銭のお酒にかなり酔い、六人の女中さんときれいに遊んだ。