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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

夏の街をゆく心

 

 少くも夏の街を享樂しようと思ふには、目的や約束があつてはいけません。といふのは、銀座のさえぐさへ寄つて絹のレースの肌着を買ひ、はいばらへいつて小菊を五帖買ひ、太郎の靴を三越へ註文して菊屋の※[#「○の中に五」、47-6]のかまぼこを買つて、明治屋でサーヂンだのチーズだのオートミール、バタ、マカロニ等等等を買ひ込んで、ついでに田屋へ寄つて、あの人の帽子を見立てたり、コテイのシヤボンも買はなければならぬほどしこたまプログラムを持つてゐては、ゆつくりアイス・クリームを呑む氣にもなれないではありませんか。


 しかし、腕時計をちよい/\見ては、プログラムをはかどらせて、電話で家から自動車を呼んで、事務的に用をたして歩くことの好きな貴婦人には、まあ夏の街をゆく心持などには御用がないはずです。

 

 夏の街を享樂する人は、贅澤に時間を使用することを知つてゐる人です。目的や約束がないのだから、すいた電車が來るのを待つか、遠いところでなければ、少し廻り道してもぶらりぶらりと歩くことです。


 震災後東京も、散歩するに好い街はほどんどなくなつてしまひました。我々の散歩地は必ずしも睛れやかな歩道でなくても、表通りでなくても好いのです。それよりも仲通りの靜かな、あんまり繁昌しない取殘された老舖や、風雅なくぐり門のある裏町は好もしいものです。

 文明開化當時、煉瓦地と呼ばれた銀座通りの柳もなつかしいが、裏通りの金春とか、河岸からあの邊一帶はよかつた。采女橋を渡つてから築地、三一教會の四つ角か築地ホテルのあたりの街のたゞずまひは、路の果てにちらちら水が見え、赤い煉瓦の建物の間を、灰色の帆がぬうと通つてゆくのです。唐人髷に結つた中型のお七帶かなんかをしめた下町娘が小走りに、明石町から箱崎の方へ橋を渡つてゆく風景は、今は昔です。


 鎧橋から海運橋、堀どめと、あの汚い河だが水に青ざめた影を落す並藏は、夏のゆふかたになくてならない背景でした。

 

 日本橋の兩仲通り、深川の富岡門前、坂本町、神田旅籠町から大時計のあたり、お成道はいまもおもしろいと思ひます。錦繪を賣る店も商賣になるものと見え、震災後はローマ字の商牌《かんばん》を屋根にあげ、店口は洋風に飾窓などつけてやつてゐます。隣がラヂオの店でその隣がポンプ屋、さうかと思ふと電氣屋の隣りに、昔ながらの黒燒屋が立派に營業してゐる[#「ゐる」は底本では「ぬる」]。百年の昔には、婦女子のために江戸の土産として一文か二文で賣つてゐた江戸繪が、いまは何千圓何萬圓の價を持つて商はれるのも不思議だが、黒燒屋が土藏にかしや札も貼らないで、ラヂオの店と並んでたつてゆくのも、おもしろい時代ではありませんか。


 妻戀坂から天神下、池の端七軒町から、團子坂、日暮里は、好きな街だつたが、いまわづかに七軒町が殘つたばかりだ。


 萬世橋から講武所を上つて、お茶の水橋から飯田橋、あの河岸と牛込見附の荷揚場はいまでもなか/\おもしろい所だ。

「あたくし東京でこの道が一番好きです」

と、ある婦人が言つたのを聞いて、私は、その婦人にしてこの砲兵工廠前の荷揚場のスケツチ畫風な面白味がわかるのかなと思つて

「どんな風に好いのですか」

とたづねると

「道が好いでせう、だから自動車がゆれないで大好き」

といふのだ。なるほど宮城前廣場のは、自動車散歩者にとつては玄海灘であるわけだ。赤坂の東宮御所前などは自動車で走らせるには快適な道だらう。東京の名所も、愉快な街もかうしてだんだん變つてゆくのだ、かうなつてくると、清水谷公園へゆくあの昔めかしい辨慶橋も、自動車散歩者にとつては、是非、石の橋でなくてはなるまい。あすこには何といふ町だつたか、赤坂帝國館の裏の虎屋といふ名代の菓子屋のある町から田町へかけても好い街だ。


 それから四谷見附の麹町十何丁目かのあの一丁ばかりの間の裏通りも好い。いつか有島生馬さんと庭の空井戸にかける竹の簾を註文にいつて、生馬さんに注意せられて見た藥屋もよかつた。

 あんな家を寫生して殘しておかないと、もう間もなく見られなくなるだろう。

 

 市ヶ谷見附から入つて三番町へゆく電車通りに一軒菓子屋がある。何とか饅頭をうる家で、窓飾に古代人形を出してある家で、あの人形が好きでよく、饅頭を通りすがりに買ひにいつたが、震災でどうなつたかと案じてこのほどいつて見たら、店つきは變つてゐたが人形は無事であつた。よそごとならずうれしくてそこの娘さんにそのことを話をしたほどだつた。人形といへば淺草の雷門の四つ角から並木の方へ二三軒いつた所に、三太郎ぶしを賣る家に、黄八丈のキモノを着せた人形があつたが、あれはどうなつたらう。


 淺草も變つた。仲店の、あれも虎の門や上野の博物館や銀座や十二階とおなじ時分に出來たと思はれる赤煉瓦の長屋の文明開化趣味も、もうなくなつた。いま新しく建築中だがこんどはどんなものになるだらう。安い西洋菓子のやうな文化建築をデコデコと建て並べなければ好いと案じられる。仁王門のわきの久米の平内から辨天山のあたりは、やはり昔ながら、木立が芽を出して、銀杏の木も火にも燒けずに青い葉をつけてゐる。觀音堂の裏の、江崎寫眞館も赤煉瓦だけ昔のまま殘つたがあのあたりはすつかり變つたものだ。どぶを隔てた金田の前の廣い道も、どぶのわきの柳の並木も、燒かれて伐られて昔の面影はない。花屋敷のうらから十二階へ拔ける。裏路のわきの泥溝も今は跡がない。


 このあたりを歩く男も女も、千種萬樣で、麻の葉の赤いメリンスの單衣に唐人髷を頭にのつけて、鈴のついた木履《ぼくり》をはいて眉を落した六つばかりの女の子の手を引いてゆく耳かくしをゆつた姉らしい女は女給ででもあらうか、素足の足の裏が黒い。


 田村屋かちくせんあたりの小紋風な浴衣をきた好い女房が、これはまた何んとしたことかドロンウオークの長襦袢をきてゐる。下駄も鹿嶋屋がなくなつてからこのかた、この女も蝶貝のえせ表現派模樣をちりばめたごてごてしたものをはいて歩いてゐる。

 

 このあたりの三味線を奏する職業婦人はさすが土地柄だけに、この種の婦人特有のあの襟をにべもそつけなくきつちり首へ卷きつけるやうに合はせるくせがなく、肌をほの見せてゆるやかに襟を合せてゐるのは好もしい。


 日のうちの洋服をぬいで、銀座の散歩に仕立おろしの中形浴衣を引かけた十六七の娘はまるで日本キモノをアメリカ娘がつんつるてんに着たといつた恰好である。襟をぐつとあけて乳の上を帶でしめつけ腰帶に申わけに胃袋の上の肋骨のとこへバンドのやうにしめて、そこから下はどぼんとまるでスカートを引いたやうにキモノを着たところは、少しもをかしくない、發育の好い肉體を、從來の着物が表はし得なかつた包み方で、實に新しい感覺を持つたものだ。これは洋服が表はすことの出來ない、日本のキモノが持つ美しさだとおもふ。これは神樂坂と紅屋で見かけたのだが、支那服に耳かくしをした少女を見たとき、これはおもしろいとおもつた。なんのことはない天平時代の風俗だ。あれでもつと大どかな紋樣のついた布をつけたらそつくり天平だ。元來耳かくしが支那あたりから西洋へ近頃いつたのが久しぶりに日本へ逆輸入したものだらう。東洋のものが西洋へいつたのは、パクストあたりの舞臺のデザインが與つて力あつたことと思はれる。近頃少女の洋服に共布《ともぎれ》で、バンド代りに結んで下げるあの紐も、たしかに日本からいつた逆輸入で、あれが新流行だからをかしい。このごろまた日本でも、ちよつとした掛額やクツシヨンや手提袋の模樣に應用せられる、ブラツク・アンド・ホワイトの圖案は、日本の切子細工や、刀のつばなどから暗示を得たものらしい。日本人も外國のものを取り入れるまへに、もつと日本の古いものをいま一度見返して工風する必要がこの邊にありさうだ。


 東京の道のわるさは、雨でも降つたら、どうでせう。ある毛唐がホテルの玄關で

「わたしのボートを呼んでくれ」

と自動車に言つたといふ洒落もうそではない。まるで淺瀬をわたるやうなものだ。齒の高い下駄をはいたり足袋を二足もつて外出するかはりに、道路の方の修繕を早く完全にする方が早道なのだが。


 讀者諸孃の父兄達にもし東京の市會議員か復興局の役人がおいでだつたら、個人の不當の利益を少し我慢して、早く私達の歩く道をよくすることを提議して見てはどうだらう。


 またまとまりがつかない文章になつたが、このつぎには「街の色彩と圖案」について少し考へてみることを約束してこの筆をおきませう。
 

底本:「砂がき」ノーベル書房株式会社
   1976(昭和51)年10月5日初版発行
※項の変わり目は、冒頭のごく短いものをのぞいて改頁されている。別丁の口絵を挟んだ後のみは、改丁扱いとなっているが、特にその箇所が大きな区切れ目を表しているわけではない。そこで誤解を避けるために、「改丁」されている箇所もあえて「改頁」と注記した。
※底本中には、「奥」と「奧」、「観」と「觀」、「懐」と「懷」、「騒」と「騷」、「髪」と「髮」など、新旧の関係にある文字が共に現れるが、統一はせず、ママとした。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:皆森もなみ
校正:Juki
ファイル作成:
2003年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

浅草文庫 - 竹久夢二 - 「砂がき 夏の街をゆく心」

「砂がき 夏の街をゆく心」

竹久夢二 1940(昭和15)年10月15日

竹久夢二|浅草文庫
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