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パンの会・吉原遊郭(新吉原) - 「ヒウザン会とパンの会」 高村光太郎 1936(昭和11)年

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷に結っていた。元禄髷というのは一種いうべからざる懐古的情趣があって、いわば一目惚れというやつでしょう。参ったから、懐ろからスケッチブックを取り出して素描して帰ったのだが、翌朝考えてもその面影が忘れられないというわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描こうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結っていないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケッチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでしょう、ということになった。

 いわばそれが病みつきというやつで、われながら足繁く通った。お定まり、夫婦約束という惚れ具合で、おかみさんになっても字が出来なければ困るでしょう、というので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習わせるといった具合。

 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通ったらしいが、結局、誰のものにもならなかった。

 一年ばかり他所へいってしまって、又吉原へ戻って、年が明いたので、年明けの宴を張った。

 阿部次郎が通ったのが判った次第は、彼がやってきて、談偶々その道に及び「君と僕とは兄弟だぜ」といったことからである。よくあることだが、私にとっては大事件だったわけだ。





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