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仲見世 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 それよりそこの「万梅」の時分、いまの木村屋のところが「写真屋」だったのである。東京名所だの役者の写真だのをうる店だったのである。――いかに夢中で、吉右衛門だの、小伝次だの、宗之助だの、当時浅草座出勤少年俳優の写真をわたしは買込んだことだろう。そのまえを通れば必ずわたしは祖母をせがんだ。――いうまでもなく絵葉書のまだ出来ない時代である。――絵葉書の出来たのはそのあと六、七年たってからである。


 ……その「写真屋」(その店の名まえを忘れたのは残念である)の角をしるこやの「秋もと」のほうへ曲り、「岡田」の屋根の両方のはじにくッついた鯛のかたちをみながら弁天山の裾をまわり、いまは酒やになった米やの角を馬道の往来へ出ると、学校のまえの銀杏の梢のすぐもうそこにみえたものである。わたしの足はおのずと早くなった。――そのころ、浅草学校、いまのようにまだ味噌屋の「万久」の通りに門をもっていなかった。――宿屋の「釜屋」のならびにいまの半分もない小さな門しかもっていなかった。――ということは、だから、その門の方を向いた教場の窓からみると、その銀杏の梢のかげに五重の塔の青い屋根が絵のようにいつもくっきり浮んでいた……




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