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吉原遊郭(新吉原) - 「桜林」 小山清 1951(昭和26)年7月1日

 私は浅草の千束町通りにあった千束小学校へ通った。その頃廓内から学校通いをするのにはちょっと不便なことがあった。というのは、ちょうどその時刻には検査場裏の裏門も五丁目の非常門も閉まっていたからである。表向き廓外へ出る道は大門口以外にはなかった。昔は大門から一歩でも踏み出すことを「江戸へ行く」と云ったそうで、また仲の町を通行することが既に「道中」であったが、しかし大正の私たちはそんな悠長な真似はしていられなかった。

 私の家では浅草方面へ出抜ける場合は、京町二丁目のはずれの黒助湯という風呂屋のある露地の突当りに在った小林というしもたやの土間を通り抜けさせてもらっていた。その家はちょうど廓の外郭に沿って流れているお歯ぐろ溝に接していたので、外との往来には便利だったのである。私も通学の際はそこを利用した。朝登校の際にはまだ寝ているらしく戸が閉まっていることもあった。そんなとき私が戸口をことこといわせていると、中からそこの小母さんが「いま、あけてあげますよ。」と云って、やがて戸をあけてくれたりした。長い間には迷惑に思ったこともあったであろう。私の家では月々その家に附届をしていた。




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