top of page

絵はがき・吉原遊郭(新吉原) - 「残されたる江戸」 柴田流星 1911(明治44)年5月

更新日:2019年7月25日

 都は夜の巷に細見売りの姿を見ること、今はほとほと少うなった。たとえば月待つほどの星の宵に、街灯の光りほの暗い横丁をゆく時、「新吉原ァ細見。華魁のゥ歳からァ源氏名ァ本名ゥ職順まで、残らずゥわかる細見はァいかが――」

 その声を最も多く耳にしたは浅草の千束町から竜泉寺筋、余は浅草の広小路にも上野の山下にも折々に見聞きしたものだが、近頃は大門を入ってからでなくば容易に姿すら見かけず、神田から九段下、牛込見附界隈にこれをまのあたりせんことは最早過ぎし夢となり果てた。さるにてもこの細見売りというもの、当時は何処に何を生業とすることやら……。


 聞けば今の絵葉書売りというもの、その一部は昔細見を売りあるいた男とやらで、如何に流行なればとて、縁日の露店に、実はよりどり五厘から一銭二銭の安絵葉書商うだけでは、腹も懐も温くはならず、さればその懐に忍ばせたもの、懐炉温石のたぐいにあらずして十二枚一組の極彩色、中なるは手易くあけて見せずに、客を択っても怪しい笑顔「へえ如何です」なぞは五十歩百歩かは知らぬが下りはてたもの、変れば変るものだと昔の若い人が妙に感心していた。

「河内瓢箪山稲荷辻占」恋の判断を小さな紙に記して、夜長の伽に売りあるく生業、これも都にフッツリ影を留めずなって、名物かりん糖の中に交れるを買って見るなど、今は恋にも喰意地がついてまわるとは情ない限りだ。




Comentários


Os comentários foram desativados.
bottom of page