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江戸三座・猿若町 - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

更新日:2019年7月17日

 今までは世間からなるべく離れよう離れようとした私が、反対に世間が何となく懐しく思われて来たのです。その頃です。私はある男を――この頃の若い人達の言葉で云えば――恋するようになったのです。笑っちゃいけませんよ。お祖母さんは懺悔の積りで話しているのですから。その男と云うのは役者なのです。後家さんの役者狂いと云えば、世間に有りふれた事で、お前さん達も苦々しく思うでしょうが、私のは少し違っていたのです。私が恋したその役者と云うのは、浅草の猿若町の守田座――これは御維新になってから、築地に移って今の新富座になったのですが、役者に出ていた染之助と云う役者なのです。若衆形でしたが、人気の立たない家柄もない役者でしたが、何故かこの役者が舞台に出ると、私はもう凡ての事を忘れて、魂を抜かれたような、夢を見ているような、心持になってしまうのです。




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