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江戸三座・猿若町 - 「ある恋の話」 菊池寛 1919(大正8)年8月

 『今度の守田座はそれはそれは大変な評判ですってね』と、云うじゃありませんか。娘を踊りのお稽古にやってあったのですが、そこで芝居の噂を聞いて来たらしいのです。素顔の染之助を見た時に感じた不愉快さが、段々醒めかかっていた頃ですから、私は芝居だけ見る分には、差支えはあるまいと思って、娘を連れて、守田座へ行って見たのです。芸題は忠臣蔵の通しで、染之助は勘平をやっているじゃありませんか。私はあの五段目の山崎街道のところで、勘平が――本当は染之助が、鉄砲と火繩とを持って花道から息せき切って駆けつけるのを見た時に、アッとばかりに感歎してしまったのです。あの馬道の通りで見た、色の蒼黒い、頬のすぼんだみすぼらしい男の代りに、如何にも零落れた武士にあるような、やさしみと品位とを持った男が一生懸命な心持で、駆け付けて来たありさまが、何とも云えず、美しく勇しく私の胸に映ったのです。馬道で見た染之助の素顔のみにくさなどは、何処かに消えてしまいました。私は染之助の勘平を一目見ると、忽ち昔と同じような有頂天な、心持になってしまったのです。




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