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江戸三座・猿若町・宮戸座・小芝居 - 「源之助の一生」 岡本綺堂 1936(昭和11)年7月

 明治二十九年の十一月に彼は帰京した。最初は市村座に出勤し、次に歌舞伎座や明治座にも出勤したが、とかく一つ所に落付かないで、浅草公園の宮戸座等にもしばしば出勤していたので、自ずと自分の箔を落してなんだか大歌舞伎の俳優ではないように認められるようになった。大阪における五、六年間の舞台生活はどうであったか、私たちは一向知らないのであるが、帰京後の彼は団十郎や菊五郎の相手たるに適しなくなったらしい。団菊も彼を相手にするを好まず、彼も団菊の相手となるを喜ばず、両者の折合が付かなくなった上に、もうその頃は、中村福助(今の歌右衛門)が歌舞伎座の立おやまたるの位地を固め、尾上栄三郎(後の梅幸)も娘形として認められ、年増役には先代の坂東秀調が控えているという形勢となっているので、帰り新参の源之助を容るる余地もなかったのである。こうして、彼は次第に大歌舞伎から逐わるるような運命に陥った。

 今日、一部の劇通に讚美せらるる「女定九郎」や、「鬼神お松」や、「うわばみお由」や、「切られお富」のたぐいは、みなこれ宮戸座の舞台における源之助の置土産である。帰京以後の彼は、大歌舞伎の舞台に殆ど何らの足跡を残していない。




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宮戸座・小芝居 - 「生い立ちの記」 小山清 1954(昭和29)年10月1日

納豆屋は五十がらみのおばさんで、手拭をかぶり、手甲、脚絆に身を固めていた。金歯を填めているのが見え、いつも酸漿を口に含んでいた。売り声にも年季が入っていて、新米には真似られない渋さがあった。この人は、その頃、観音さまの裏の宮戸座に出ていた沢村伝次郎(いまの訥子)に岡惚れしていた

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