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浅草名産・銘菓・仲見世 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 それはただ在来の人形焼……で思い出したが、そのずっと以前、広小路の、「ちんや」のならびにそれの古い店があった。夫婦かけむかいでやっていたが、そろって両方が浄瑠璃好き、とき/″\わたしでも細君が三味線をひき、そのまえで主人の首をふり/\夢中でそれを語っているのを店のかげにみたことがあった。しかく大まかな世せかいだった。電車も通らず、自動車も響かず、柳の葉のしずかに散りしいたわけである。――前にいうのを忘れたが、その時分まだ「ちんや」は牛屋をはじめなかった。ヒマな、客の来ない、萎微をきわめた天麩羅屋だった。……その人形焼を、提灯、鳩、五重の塔、それ/″\「観音さま」にちなみあるものに仕立てたにすぎなかったが、白いシャツ一つの男が店さきで、カン/\熾った火のまえにまのあたりそれを焼いてみせるのが人気になったのである。そうして長い月日のうち、とう/\いっぱしの、そこでの名代の店の一つになったのである。――ということは、前にいった、露にそれを模倣する店の一、二軒といわず続いてあとから出来た奴である。

 こうして、いま、「仲見世」に、「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」以外の新しい「浅草みやげ」が出来た。「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」の繁栄の、むかしをいまにするよしもなくなったのは、ひとえに「時代」の好みのそれだけ曲折に富んで来た所以である。――「梅林堂」のおくめさんの赤いたすきこそいまついに完全な「伝説」になり了った。




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