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浅草寺(浅草観音)・見世物 - 「三筋町界隈」 斎藤茂吉 1937(昭和12)年1月

 東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇の小さな媼であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚だの、信田の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好かったというものである。




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