top of page

浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

「三筋町界隈​」

斎藤茂吉 1954(昭和29)年10月1日

 

 この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清《にっしん》戦役が済んで遼東還附《りょうとうかんぷ》に関する問題が囂《かまびす》しく、また、東北三陸の大海嘯《だいかいしょう》があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹《よさのてっかん》の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖《そで》」、紅葉《こうよう》の「多情多恨」、柳浪《りゅうろう》の「今戸心中《いまどしんじゅう》」あたりが書かれた頃《ころ》に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆《ばあ》さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇《すがめ》の小さな媼《おうな》であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚《ゆうてんおしょう》だの、信田《しのだ》の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐《びゃっこ》などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔《かえん》などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣《もう》ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時《いつ》ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継《あとつぎ》もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉《うどんこ》か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵《こしら》えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵《かな》わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好《よ》かったというものである。


 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前《くらまえ》どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目《ま》のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢《ひ》かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際《きわ》どい事故は起らぬのであった。

 

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里上《かみ》ノ山《やま》の小学校を卒《お》え、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿《ぼっ》したから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈《まが》っていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯《ちょうちん》を消したように憶《おぼ》えている。


 関山峠はもうそのころは立派な街道《かいどう》でちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころから私の足は疲れて来て歩行が捗《はかど》らない。広瀬川の上流に沿うて下るのだが、幾たびも幾たびも休んだ、父はそういう時には私に怪談をする。それは多く狐《きつね》を材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼が実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受取ることも出来る。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし足の疲労の方が勝つものだから、だんだん利目《ききめ》がなくなって来るというような具合であった。ところがあたかもそのとき騎兵隊の演習戦があった。卒は黄の肋骨《ろっこつ》のついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。私は日清戦争の錦絵《にしきえ》は見ていても本物を見るのはその時が初めてであった。


 一隊は広瀬川の此岸《しがん》におり、敵らしい一隊は広瀬川の対岸の山かげあたりにいる。戦闘が近づくと当方隊の一部は馬から下りて広瀬川の岸に散開して鉄砲を打ちかけた。そうすると向うからも鉄砲の音が聞こえてくる。その音は私には何ともいえぬ緊張した音である。暫《しば》らく鉄砲を打っていたかとおもうと、当方の一隊は尽《ことごと》く抜剣し橋を渡って突撃した。父も私もこういう光景を見るのは生れてからはじめてであった。私の元気はこれを見たので回復して日の暮れに作並《さくなみ》温泉に著《つ》いた。その日の行程十五里ほどである。

 

 翌日仙台に著いて一泊し、東北での城下仙台に目のあたり来たことを感じ、旅館では最中《もなか》という菓子をはじめて食った。当時長兄が一年志願兵で第二師団に入営していたのに面会に行ったが機動演習で留守であった。そこで一日置いて朝仙台を発し、夜になって東京の上野駅に著いた。そして、世の中にこんな明るい夜が実際にあるものだろうかとおもった。数年を経て不夜城と言う言葉を覚えたが、その時も上野駅にはじめて著いたときの印象を逆におもい出したものであった。そのころの燈火は電燈よりも石油の洋燈《ラムプ》が多かったはずだのにそんなに明るく感じたものである。


 それから父と二人は二人乗の人力車《じんりきしゃ》で浅草区東三筋町《みすじまち》五十四番地に行ったが、その間の町は上野駅のように明るくはなかった。やはり上ノ山ぐらいの暗いところが幾処もあって、少年の私の脳裡《のうり》には種々雑多な思いが流れていたはずである。さてその五十四番地には、養父斎藤紀一先生が浅草医院というのを開いていたので、其処《そこ》にたどりついたのである。


 医院はまだ宵の口なので、大きなラムプが部屋に吊《つ》りさげられてあって光は皎々《こうこう》と輝いていた。客間は八畳ぐらいだが紅《あか》い毛氈《もうせん》などが敷いてあって万事が別な世界である。また、最中という菓子も毎日のように食うことが出来る。


 ここに書いた陰暦七月十七日は陽暦にすれば何日になるだろうかと思って調べたことがある。それに拠《よ》ると旧の七月十七日は新の八月二十五日になるから、二十八日か二十九日かに東京に著いたことになる。

 

 養父紀一先生はそのころ紀一郎といったが、紀一という文字は非常によいものだと漢学の出来る患家の一人がいったとかで紀一と改めたのである。父の開業していた、その浅草医院は、大学の先生の見離した病人が本復《ほんぷく》したなどという例も幾つかあって、父は浅草区内で流行医の一人になっていた。そして一つの専門に限局せずに、何でもやった。内科は無論、外科もやれば婦人科もやる、小児科もやれば耳鼻科もやるというので、夜半に引きつけた子供の患者などは幾たりも来た。そういう時には父は寝巻に※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18]袍《どてら》のままで診察をする。私もそういう時には物珍しそうに起きて来て見ていると、ちょっとした手当で今まで人事不省になっていた孩児《がいじ》が泣き出す、もうこれでよいなどというと、母親が感謝して帰るというようなことは幾度となくあった。硝子《ガラス》を踏みつけた男が夜半に治を乞《こ》いに来て、それがなかなか除かれずに難儀したことなどもあった。咽《のど》に魚の骨を刺して来たのを妙な毛で作った器械で除いてやって患者の老人が涙をこぼして喜んだことなどもある。まだ喉頭鏡《こうとうきょう》などの発明がなかった頃であるから、余計に感謝されたわけである。


 今は医育機関が完備して、帝国大学の医学部か単科医科大学で医者を養成し、専門学校でさえもう低級だと論ずる向《むき》もあるくらいであるが、当時は内務省で医術開業試験を行ってそれに及第すれば医者になれたものである。


 そこで多くの青年が地方から上京して開業医のところで雑役をしながら医学の勉強をする。もし都合がつけば当時唯一の便利な医学校といってもよかった済生学舎に通って修学する。それが出来なければ基礎医学だけは独学をしてその前期の試験に合格すれば、今度は代診という格になって、実際患者の診察に従事しつつ、その済生学舎に通うというようなわけで、とにかく勉強次第で早くも医者になれるし、とうとう医者になりはぐったというのも出来ていた。


 当時の医学書生は、服装でも何かじゃらじゃらしていて、口には女のことを断たず、山田良叔先生の『蘭氏生理学生殖篇』を暗記などばかりしているというのだから、硬派の連中からは軽蔑《けいべつ》の眼を以《もっ》て見られた向もあったとおもうが、済生学舎の長谷川泰翁の人格がいつ知らず書生にも薫染していたものと見え、ここの書生からおもしろい人物が時々出た。


 ある時、陸軍系統といわれた成城学校の生徒の一隊が済生学舎を襲うということがあって、うちの書生などにも檄文《げきぶん》のようなものが廻《まわ》って来たことがあった。すると、うちの書生が二人ばかり棍棒《こんぼう》か何かを持って集まって行った。うちの書生の一人に堀というのがいて顔面神経の痲痺《まひ》していた男であったが、その男に私も附いて行ったことがある。すると切通《きりどおし》一帯の路地路地《ろじろじ》には済生学舎の書生で一ぱいになっていた。彼らは成城学校の生徒を逆撃しようと待ちかまえているところであった。これは本富士《もとふじ》署あたりの警戒のために未遂に終ったが、当時の医学書生というものの中には本質までじゃらじゃらでない者のいたことを証明しているのである。


 医学書生のやる学問は常に肉体に関することだから、どうしても全体の風貌《ふうぼう》が覚官的になって来るとおもうが、長谷川翁の晩年は仏学即《すなわ》ち仏教経典の方に凝ったなどはなかなか面白いことでもあり、西洋学の東漸中、医学がその先駆をなした点からでも、医学書生の何処《どこ》かに西洋的なところがあったのかも知れない。著流《きなが》しのじゃらじゃらと、吉原《よしわら》遊里の出入などということも、看方《みかた》によっては西洋的な分子の変型であるかも知れないから、文化史家がもし細かく本質に立入って調べるような場合に、当時の医学書生の生活というものは興味ある対象ではなかろうかとおもうのである。


 また、医学の書生の中にも毫《すこし》も医学の勉強をせず、当時雑書を背負って廻っていた貸本屋の手から浪六《なみろく》もの、涙香《るいこう》もの等を借りて朝夕そればかり読んでいるというのもいた。私が少年にして露伴翁の「靄護精舎《あいごしょうじゃ》雑筆」などに取りつき得たのは、そういう医院書生の変り種の感化であった。
 そういう入りかわり立ちかわり来る書生を父は大概大目に見て、伸びるものは伸ばしても行った。その書生名簿録も今は焼けて知るよしもないが、既に病歿したものが幾人かいて、私の上京当時撮った写真にそのころの名残を辛うじてとどめるに過ぎない。

 

 

 

 その頃、蔵前に煙突の太く高いのが一本立っていて、私は何処《どこ》を歩いていても、大体その煙突を目当《めあて》にして帰って来た。この煙突は間もなく二本になったが、一本の時にも煙を吐きながら突立っているさまは如何《いか》にも雄大で私はそれまでかく雄大なものを見たことがなかった。神田《かんだ》を歩いていても下谷《したや》を歩いていても、家のかげになって見えない煙突が、少し場処をかえると見えて来る。それを目当に歩いて来て、よほど大きくなった煙突を見ると心がほっとしたものである。上京したての少年にとってはこの煙突はただ突立っている無生物ではなかったようである。


 私が東京に来て、三筋町のほかにはやく覚えたのは本所《ほんじょ》緑町であった。その四丁目かに黒川重平という質屋があって、其処の二階に私の村の寺の住職佐原※[#「宀/隆」、第4水準2-8-9]応《りゅうおう》和尚が間借をして本山即ち近江番場《おうみばんば》の蓮華《れんげ》寺のために奮闘していたものである。私は地図を書いてもらって徒歩で其処に訪《たず》ねて行った。二階の六畳一間で其処に中林梧竹《ごちく》翁の額が掛かっていて、そこから富士山が見える。私は富士山をそのときはじめて見た。夏の富士で雲なども一しょであったが、現実に富士山を見たときの少年の眼は一期を画したということになった。この画期ということは何も美麗な女体を見た時ばかりではない。山水といえども同じことである。


 郷里の上ノ山の小学校には時々郡長が参観に来た。江嘉氏であったとおもうが鹿児島出身の老翁で、英吉利《イギリス》軍艦に談判に行った一行の一人であった。校長に案内されて郡長は紙巻の煙草《たばこ》をふかしながら通る。ホールで遊んでいる児童が立って敬礼をする。そのあとに煙草の煙の香《かおり》が残る。煙は何ともいえぬ好《よ》い香《かおり》で香ばしいような酸っぱいような甘いような一種のかおりである。少年の私はいつもその香に淡い執著を持つようになっていた。しかるに東京に来て見ると、うちの代診も書生どももかつて郡長の行過ぎたあとに残ったような香のする煙草を不断吸っている。ひそかにそれを見ると皆舶来の煙草である。そしてパイレートというのの中には美人だの万国の兵士だのの附録絵がついているので私もそれを集めるために秘《ひそ》かに煙草を買うことがある。煙草ははじめは書生にくれていたが、時には火をつけてその煙を嗅《か》ぐことがある。もともと煙の香に一種の係恋《けいれん》を持っていたのだから中学の三年ごろから、秘かに煙草喫《の》むことをおぼえて、一年ぐらい偶※[#二の字点、1-2-22]《たまたま》に喫んでいたが、ある動機で禁煙して、第一高等学校の三年のときまた喫みはじめた。その明治三十七年から大正九年に至るまでずっと喫煙をして随分の分量喫《す》った。巣鴨《すがも》病院に勤務していた時、呉《くれ》院長は、患者に煙草を喫ませないのだから職員も喫ってはならぬと命令したもので、私などは隠れて便所の中で喫んだ。それくらい好きな煙草を長崎にいたときやめて、佳《よ》い煙草も安く喫める欧羅巴《ヨーロッパ》にいたときにも決して口に銜《くわ》えることすらしなかった。一旦銜えたら離れた恋人を二たび抱くようなものだと悟って決してそれをせずにしまった。しかしその煙を嗅ぐことは今でも好きで、少年のころパイレートの煙に係恋をおぼえたのとちっとも変りはないようである。


 かつて巣鴨病院の患者の具合を見ていると、紙を巻いて煙草のようなつもりになって喫んでいるのもあり、煙管《きせる》を持っているものは、車前草《おおばこ》などを乾《ほ》してそれをつめて喫むものもいる。その態《てい》は何か哀れで為方《しかた》がなかったものである。また徳川時代に一時禁煙令の出たことがあった。或日商人某が柳原の通をゆくと一人の乞丐《こじき》が薦《こも》の中に隠れて煙草を喫んでいるのを瞥見《べっけん》して、この禁煙令はいまに破れると見越《みこし》をつけて煙管を買占めたという実話がある。昼食のとき私はこの実例を持出して笑談まじりに呉院長を説得したことがあった。

 

 開業試験が近くなると、父は気を利《き》かして代診や書生に業を休ませ勉強の時間を与える。しかし父のいない時などには部屋に皆どもが集って喧囂《けんごう》を極めている。中途からの話で前半がよく分からぬけれども何か吉原を材料にして話をしている。遊女から振られた腹癒《はらい》せに箪笥《たんす》の中に糞《くそ》を入れて来たことなどを実験談のようにして話しているが、まだ、少年の私がいても毫《すこし》も邪魔にはならぬらしい。その夜《よ》更《ふ》けわたったころ書生の二、三は戸を開《あ》けて外に出て行く。しかし父はそういうことを大目に見ていた。

 

 明治三十年ごろ『中学新誌』という雑誌が出た。これはやはり開成中学にも教鞭《きょうべん》をとった天野という先生が編輯《へんしゅう》していたが、その中に、幸田露伴先生の文章が載ったことがある。数項あったがその一つに、「鶏の若きが闘ひては勝ち闘ひては勝つときには、勝つといふことを知りて負くるといふことを知らざるまま、堪へがたきほどの痛きめにあひても猶《なお》よく忍びて、終《つい》に強敵にも勝つものなり。また若きより屡※[#二の字点、1-2-22]《しばしば》闘ひてしばしば負けたるものは、負けぐせつきて、痛を忍び勇みをなすといふことを知らず、まことはおのが力より劣れるほどの敵にあひても勝つことを得ざるものなり。鶏にても負けぐせつきたるをば、下鳥《したどり》といひて世は甚だ疎む。人の負けぐせつきたるをば如何《いか》で愛《め》で悦《よろこ》ばむ」というのがあって、私はこれをノオトに取って置いたことがある。この文は普通道徳家例えば『益軒十訓』などの文と違い実世間的な教訓を織りまぜたものであって、いつしか少年の私の心に沁《し》み込んで行った。

 

 吉原遊里の話も、ピンヘッド、ゴールデンバット、パイレートの煙草の香も、負ぐせのついた若鶏の話も、陸奥《むつ》から出京した少年の心には同様の力を以て働きかけたものに相違ない。今はもはや追憶だから当にならぬようで存外当っている点がある。

 

 

 

 私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油《しょうゆ》のことをムラサキという。餅《もち》のことをオカチンという。雪隠《せっちん》のことをハバカリという。そういうことを私は素直に受納《うけい》れて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。


 私が開成中学校に入学して、その時の漢文は『日本外史』であったから、当てられると私は苦もなく読んで除《の》ける。『日本外史』などは既に郷里で一とおり読んで来ているから、ほかの生徒が難渋《なんじゅう》しているのを見るとむしろおかしいくらいであった。しかるに私が『日本外史』を読むと皆で一度に笑う。先生は磯部武者五郎という先生であったがお腹《なか》をかかえて笑う。私は何のために笑われるかちっとも分からぬが、これは私の素読は抑揚頓挫《とんざ》ないモノトーンなものに加うるに余り早過ぎて分からぬというためであった。爾来《じらい》四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で私の生は終わることになる。

 

 私は東京に来て蕎麦《そば》の種物《たねもの》をはじめて食った。ある日母は私を蕎麦屋に連れて行って、玉子とじという蕎麦を食べさせた。私は仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんな旨《うま》いものがあるだろうかと思ったが、程経《ほどへ》て、てんぷら、おやこ、ごもく、おかめなどという種蕎麦のあることを知って、誠に驚かざることを得なかった。


 それから佐竹の通りには馬肉屋が数軒あったが、私はそういう処に入ることを知らなかった。ただ市村《いちむら》座の向側に小さい馬肉の煮込を食わせるところがあり、その煮方には一種の骨《こつ》があって余所《よそ》では味《あじわ》えない味を出していた。うちの書生の説に椿《つばき》油か何かを入れるのではなかろうかというのであったが、よくは分からない。


 夜十時過ぎになると書生も代診も交って籤《くじ》を引いて当った者が東三筋町から和泉《いずみ》町のその馬肉屋まで買いに来る。今どきの少年は馬肉は軽蔑して食わぬし、ビステキなども上等のを食いたがるけれども、馬肉を食わぬからといって皆賢《かしこ》くなるというわけではない。また、大正十年の夏、私は信州富士見に転地していたとき、あの近在に或る神社の祭礼があって、そこでやはり馬肉の煮込を食べたことがある。その味は市村座の向側の馬肉屋の煮込そっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかも知れない。


 郷里を立つとき祖母は私に僅《わず》かばかりの小遣銭《こづかいせん》をくれていうに、東京には焼芋《やきいも》というものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで私は学校の帰りには、左衛門橋の袂《たもと》の焼芋屋によって五厘ずつ買った。そのころ五厘で焼芋三個くれたものである。

 

 母は私を可哀がって学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になった頃で大概三つぐらいは食った。

 

 また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一碗《わん》一銭五厘ぐらいで赤い唐辛子粉《とうがらしこ》などをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になった。その頃はあんなに甘くなかった。

 

 私と同様出京して正則《せいそく》英語学校に通っていた従弟《いとこ》が、ある日日本橋を歩いていて握鮓《にぎりずし》の屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口《がまぐち》に二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いて私は一切すしというものを食う気がしなかった。鰻丼《うなどん》なども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖が盛になったために吾々《われわれ》はありがたい世に生きているわけである。

 

 

 

 そのころ奠都《てんと》祭というものがあって式場は多分日比谷《ひびや》だったようにおもう。紅い袴《はかま》を穿《は》いた少女の一群を見て非常に美しく思ったことがある。それから間もなく女学生が紅い袴を穿き、ついで蝦茶《えびちゃ》の袴がある期間流行して、どのくらい青年の心を牽《ひき》つけたか知れぬが、そのころはまだそれが、なかった。


 東三筋町に近い、鳥越《とりごえ》町に渡辺省亭《わたなべせいてい》画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割《ももわれ》に結って蝦茶の袴は未だ穿いていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺水巴《すいは》氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。


 黒川真頼《まより》翁も具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるに剃《そ》っておられた。体が癢《かゆ》くて困るといわれてうちの代診の工夫で硫黄《いおう》の風呂《ふろ》を立てたこともあり、最上《もがみ》高湯の湯花を用いたことなどもあった。いまだ少年であった私が縦《たと》い翁と直接話を交《かわ》すことが出来なくとも、一代の碩学《せきがく》の風貌《ふうぼう》を覗《のぞ》き見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家とのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみは失《う》せた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論患者の家族からも感謝せられざる医者である。


 私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということが沁《し》み込んでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺戟《しげき》も少く万事が単純素朴であったのである。それでも目ざめかかったリビドウのゆらぎは生涯ついて廻るものと見えて、老境に入った今でも引きつけられる対象としての異性はそのころのリビドウの連鎖のような気がしてならないのである。そのころ新堀《しんぼり》を隔てた栄久町《えいきゅうちょう》の小学校に通う一人の少女があった。間もなく卒業したと見えて姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影を偲《しの》んだことがある。あるいは目前に私に対している少女にその再来なるものがいるかも知れない。


 新堀といえば、新堀にはそのころ舟が幾艘《そう》も来て舫《もや》っていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠《しょうきょ》あり、須賀町地先を経、一屈折して蔵前《くらまえ》通りを過ぎ、二岐となる。其の北に入るものは所謂《いわゆる》、新堀にして、栄久《えいきゅう》町三筋《みすじ》町等に沿ひ、菊屋《きくや》橋・合羽《かっぱ》橋等の下に至る。此一条の水路は甚だ狭隘《きょうあい》にして且《か》つ甚だ不潔なれども、不潔物其他の運搬には重要なる位置を占むること、其の不快を極むるところの一路なるをも忌み厭《きら》ふに暇《いとま》あらずして渠身不相応なる大船の数々出入するに徴して知るべし。且つ浅草区一帯の地の卑湿にして燥《かわ》き難きも、此の一水路によりて間接に乾燥せしめらるること幾許《いくばく》なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし」とあるところである。まだ少年の私はパイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけをとって中味をこの堀の水に棄《す》てたことがあった。新堀の名は三味線堀と共に私の記憶から逸し得ざるのもまた道理である。

 

 その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々《しみじみ》とおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだから如何《いか》にも念入であった。師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の煙が上って天を焦がすところで、その煙がむくむく動くように見えていたものである。


 このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々《たびたび》は見ずにしまった。そのころ仲見世《なかみせ》に勧工場《かんこうば》があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜《た》まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。


 そういう英雄豪傑の写真に交って、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬《ほお》のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影《うつ》っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓《めいぎ》として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切《しき》りに噂《うわさ》に上った頃の話である。


 そのうち私は中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷《ほんごう》三丁目の交叉《こうさ》点に近く住んでいるということを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷《やけど》をしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交《おりま》ぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月患者の慰安会というものを催し、次ぎから次と変った芸人が出入したが、ある時鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある。父がそのとき「なるほどまだいい女だねえ」などといって、私は父の袖を引張ったことがある。私のつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが人生を閲《けみ》して来た味《あじわ》いが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。私は後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時写真で見たぽん太の面影が視野の外に全くは脱逸していなかったためである。私はその時のことを「かなしかる初代ぽん太も古妻《ふりづま》の舞ふ行く春のよるのともしび」という一首に咏《よ》んだ。私のごとき山水歌人には手馴《てな》れぬ材料であったが、苦吟のすえに辛うじてこの一首にしたのであった。散文の達者ならもっと余韻嫋々《じょうじょう》とあらわし得ると思うが、短歌では私の力量の、せい一ぱいであった。また或る友人は、山水歌人の私が柄にも似ずにぽん太の歌などを作ったといったが、作歌動機の由縁を追究して行けば、遠く明治二十九年まで溯《さかのぼ》ることが出来るのである。歌は歌集『あらたま』の大正三年のところに収めてある。


 それからずっと歳月が経《た》って、私の欧羅巴《ヨーロッパ》から帰って来た大正十四年になるが、火難の後の苦痛のいまだ疼《う》ずいているころであったかとおもうが、友人の一人から手紙を貰《もら》った中に、「ぽん太もとうとう亡くなりました」という文句があった。そしてこの報道は恐らく新聞の報道に本づいたものであったろうとおもうが、都下の新聞では先ず問題にするような問題にはしなかったようである。それで私も知らずにいたし、その報道の切抜《きりぬき》なども持っていない。恐らく極く小さく記事が載ったのではなかっただろうか。

 

 昭和十年になって、ふとぽん太のことを思いだし、それからそれと手を廻して友人の骨折によってぽん太の墓のあるところをつきとめた。墓は現在多磨墓地にある。


 昭和十一年の秋の彼岸《ひがん》に私は多磨墓地に行った。雨のしきりに降る日で事務所で調べるのに手間どったがついにたずね当てることが出来た。墓は多磨墓地第二区八側五〇番甲種で、墓石の裏には大正十四年八月一日二代清三郎建之と刻してある。この二代鹿島清三郎氏は目下小田原下河原四四番地に住まれているはずである。此処《ここ》に合葬せられている仏は、鹿島清兵衛。慶応二年生。死亡大正十二年十月十日。病名慢性腸加答児《カタル》。ゑ津。明治十三年十一月二十日生。死亡大正十四年四月二十二日。病名肝臓腫瘍《しゅよう》。大一郎。明治三十四年八月八日生。死亡大正十四年二月九日。病名慢性気管支加答児。静江。明治四十年二月九日生。死亡昭和三年一月二十九日。病名腎臓炎。京子。明治四十年生。死亡大正十三年九月二十七日。病名脊髄《せきずい》カリエス。云々である。


 鹿島ゑ津さんは即《すなわ》ち初代ぽん太で、明治十三年生だから昭和十一年には五十七歳になるはずで、大正十四年四十六歳で歿《ぼっ》したのである。ぽん太については、森鴎外の「百物語」に出ているが、あれはまだ二十前の初々《ういうい》しい時のことであっただろう。誰か小説の大家が、晩年におけるゑ津さんの生活のデタイルスを叙写してくれるなら、必ず光りかがやくところのある女性になるだろうと私は今でもおもっている。

 

 そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。

 

 私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦《かわら》を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。

 

 そういう具合にして私は吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、その時から殆《ほとん》ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡《なび》いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。そのうち火勢が段々衰えて来て、たちのぼる煙の範囲も狭くなるころ、「もうおしまいだ」などといって書生らは屋根から降りて行っても私はしまいまで降りずにいたものである。こういう光景は、私の子どもらはもう知ることが出来ない。


 このごろは、ナフタリンだの何のと、種々様々な駆虫剤が便利に手に入ることが出来るので、蚤《のみ》なども殆《ほとん》どいなくなったけれども、そのころは蚤が多くて毎夜苦しめられた。そのかわり、動物学で学んだ蚤の幼虫などは、畳の隅《すみ》、絨毯《じゅうたん》の下などには幾つも幾つもいたものである。私はある時その幼虫と繭《まゆ》と成虫とを丁寧に飼っていたことがある。特に雌雄の蚤の生きている有様とか、その交尾の有様とかいうものは普通の中等教科書には書いてないので、私は苦心して随分長く飼って置いたことがある。飼うには重曹とか舎利塩などのような広口の瓶の空《あ》いたのを利用して、口は紙で蔽《おお》うてそれに針で沢山の穴をあけて置く。また時々血を吸わせるには、太股《ふともも》のところに瓶の口を当てて置くと蚤が来て血を吸う。そういうときに交尾状態をも観察し得るので、あの小さい雄の奴がまるで電光の如くに雌に飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族も追々減少して見れば、そういう実験をしようとしても今は困難であるから、私の子どもなどはもうこういうことは知らないでいる。


 そうだ、火事のところでいい忘れたが、火事が近くて火の粉の降りかかって来たのが鳥越町に一つあった。また凄《すご》かったのは神田和泉町の第二医院の火事で、あまりの驚愕《きょうがく》に看護婦に気のふれたのがあって、げらげら笑うのを朋輩《ほうばい》が三、四人して連れて来るのを見たことがある。私がそんなに近く見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。

 

 東京は大震災であのような試煉を経たが、私も後年に火難の試煉を経た。少年のとき屋根瓦にかじりついて、紅く燃えあがる吉原の火事を傍看したのとは違って、これはまたひどいともひどくないとも全く言語に絶した世界であった。私は香港《ホンコン》と上海《シャンハイ》との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持で船房に帰ったことを今おもい出す。

 

 

 私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。その時には、門から玄関に至るまで石畳になっていたところに、もう一棟家が建って糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかし塀《へい》に沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴から覗《のぞ》けば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。


 それから、昭和元年ごろ、歳晩《としのくれ》にも一度見て通ったことがある。その時には市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラック建《だて》であるし、殆《ほとん》ど元のおもかげがなくなっていた。私は泥濘《でいねい》の中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。

 

 それからついでがあって昭和十一年の一月と十月とに其処をたずねた。蔵前通を行くと、桃太郎団子はさびれてまだ残っていた。そして市区がすっかり改正されて、道路も舗装道になっているし、一月の時には三筋町の通りで羽子《はね》などを突いているのが幾組もあった。まがり角が簡易食店で西洋料理などを食べさせるところ。その隣は茶鋪、蝦蟇口《がまぐち》製造業、ボール筥《ばこ》製造業という家並で、そのあたりが私のいた医院のあとであった。その隣はカバン製造業、洋品店、玩具《がんぐ》問屋、煙草《たばこ》店、菓子店というような順序に並んでおり、路地に入ってみると、元庭であったところにもぎっしり家が建っており、そのあたりの住人も大体替ってしまっていた。その頃の煙草屋も薬種商も、綿屋も床屋も肉屋も炭屋も皆別な人で元のおもかげがなかった。私の気持からいえば先ずリップ・ワン・ウィンクルというところであった。


 一月の時には私は鳥越神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後新《あらた》に建てられたもので、そのころ縁日のあったあたりとは何となく様子がかわっていた。それから北三筋町の方へも歩いて行って見た。今は小さい通りも多くなって、電車通に向いて救世軍の病院が立派に建っている。新堀は見えなくなってその上を電車の通ったのは前々からであるが、震災後街衢《がいく》が段々立派になり、電車線路を隔てた栄久町の側には近代茶房ミナトなどという看板も見えているし、浄土宗浄念寺も立派に建立《こんりゅう》せられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋宏壮《こうそう》な建築物として空に聳《そび》えつつあった。かつて少年私の眼にとまった少女の通っていた学校である。


 私の追憶的随筆は、かくの如くに平凡な私事に終始してあとは何もいうことがない。ただ一事加えたいのは、父が此処に開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入《かものまぶちかきいれ》の『古今集』を貰《もら》った。多分田安家に奉ったものであっただろうとおもうが、佳品の朱で極めて丁寧に書いてあった。出処も好《よ》し、黒川真頼《まより》翁の鑑定を経たもので、私が作歌を学ぶようになって以来、私は真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはり一しょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年暮の火災のとき灰燼《かいじん》になってしまった。私の書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、辛うじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失《う》せた。私は東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思出して残念がるのであるが、何事も思うとおりに行くものでないと今では諦《あきら》めている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとした事に本づくものがあると知って、それで諦めているようなわけである。


 まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢《よわい》を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗《きれい》な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱《しか》られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜《あいせき》したこともある。今度もこの随筆から棄《す》てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。

底本:「斎藤茂吉随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
   2003(平成15)年6月13日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
   1981(昭和56)年11月1日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1937(昭和12)年1月号
入力:五十嵐仁
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

浅草文庫 - 斎藤茂吉 - 「三筋町界隈」

斎藤茂吉|浅草文庫
bottom of page