淡島堂 - 「淡島椿岳 --過渡期の文化が産出した画界のハイブリッド--」 内田魯庵 1916(大正5)年3月
- 浅草文庫
- 2018年9月23日
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明治七、八年頃、浅草の寺内が公園となって改修された。椿岳の住っていた伝法院の隣地は取上げられて代地を下附されたが、代地が気に入らなくて俺のいる所がなくなってしまったと苦情をいった。伝法院の唯我教信が調戯半分に「淡島椿岳だから寧そ淡島堂に住ったらどうだ?」というと、洒落気と茶番気タップリの椿岳は忽ち乗気となって、好きな事仕尽して後のお堂守も面白かろうと、それから以来椿岳は淡島堂のお堂守となった。
淡島堂というは一体何を祀ったもの乎祭神は不明である。彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神天皇とを合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左に右く紀州の加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって、仏具を飾って僧侶がお勤めをしていたから、椿岳もまた頭を剃円めて法体し、本然と名を改めて暫らくは淡島様のお守をしていた。

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