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玩具 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

 「武蔵屋」の、震災後、いままでのいうところの「ぜいたくや」を止め、凡常な、張子の鎧かぶとを軒にぶら下げ、ブリキの汽車や電車をならべ、セルロンドの人形やおしゃぶりをうず高く積みあげた、それこそ隣にも、そのまた隣にも見出せるであろう玩具屋になり了ったことは、わたしに再び、「仲見世」の石だたみにふる糸のような春雨の音を聞く能わざらしめた感がある。わたしは限りなく寂しい。そこで出来る雛道具こそ榎のかげにくろい塀をめぐらした「万梅」とともに「古い浅草」を象徴するものだった。箪笥、長持、長火鉢のたぐいから笊、みそこし、十能、それこそすり鉢、すり粉木の末にいたる台所道具一切、それは「もちあそび」とはいえない繊細さ、精妙さをもっていた。しかもその繊細さ、精妙さのうちに「もちあそび」といってしまえない「生命感」がやどっていた。堅実なしみ/″\した「生命感」が躍っていた。――しかもそうして、うちみのしずかなこと水の如きものがあった……

 そこのそうしたさまになったと一しょに、伝法院の横の、木影を帯び、時雨をふくんだその「細工場」は「ハッピー堂」と称する絵葉書屋になった。――その飾り窓の一部にかかげられた「各博覧会賞牌受領」の額をみて立つとき、わたしのうなじにさす夕日の影はいたずらに濃い……

「伊勢勘」で出来るものは「子供だまし」という意味での「大人だまし」である。絵馬だの、豆人形だの、縁喜棚だの、所詮それらは安価な花柳趣味だけのものである。かつての「武蔵屋」のそれが露にめぐまれて咲いた花なら「伊勢勘」のそれはだまされて無理から咲いた「室」の花である。でなければ糊とはさみとによって出来た果敢ない「造花」である。……わたしにいわせれば、畢竟それは「新しい浅草」の膚浅な「殉情主義」の発露に外ならない……  が、一方は衰えて一方はさかえた。――いつのころからか「助六」と称するそれと同じような店まで同じ「仲見世」に出来た……




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