top of page

馬車鉄道・路面電車 - 「大東京繁盛記 下町篇 雷門以北」 久保田万太郎 1927(昭和2)年6月30日-7月16日

更新日:2018年10月3日

 ……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろ/\小川学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのはわたしの子供の時分のとは代を異にしている。もとのそのうちは二十年ほどまえ瓦解した。その前後のゆくたてに花ぐもりの空のようなさびしさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古い一つだった。

 毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」――その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町のいま電気局のあるところに馬車会社があった――を越して「浅倉屋の露地」を入った。




Comments


Commenting has been turned off.
bottom of page