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浅草にまつわる、

小説・随筆・詩・俳句

「妖術」

泉鏡花 1911(明治44)年2月

 

 むらむらと四辺《あたり》を包んだ。鼠色の雲の中へ、すっきり浮出したように、薄化粧の艶《えん》な姿で、電車の中から、颯《さっ》と硝子戸《がらすど》を抜けて、運転手台に顕《あら》われた、若い女の扮装《みなり》と持物で、大略《あらまし》その日の天気模様が察しられる。


 日中《ひなか》は梅の香も女の袖《そで》も、ほんのりと暖かく、襟巻ではちと逆上《のぼ》せるくらいだけれど、晩になると、柳の風に、黒髪がひやひやと身に染む頃。もうちと経《た》つと、花曇りという空合《そらあい》ながら、まだどうやら冬の余波《なごり》がありそうで、ただこう薄暗い中《うち》はさもないが、処を定めず、時々墨流しのように乱れかかって、雲に雲が累《かさ》なると、ちらちら白いものでも交《まじ》りそうな気勢《けはい》がする。……両三日《さんち》。


 今朝は麗《うらら》かに晴れて、この分なら上野の彼岸桜《ひがん》も、うっかり咲きそうなという、午頃《ひるごろ》から、急に吹出して、随分風立ったのが未《いま》だに止《や》まぬ。午後の四時頃。

 

 今しがた一時《ひとしきり》、大路が霞《かすみ》に包まれたようになって、洋傘《こうもり》はびしょびしょする……番傘には雫《しずく》もしないで、俥《くるま》の母衣《ほろ》は照々《てらてら》と艶《つや》を持つほど、颯《さっ》と一雨掛《かか》った後で。

 

 大空のどこか、吻《ほっ》と呼吸《いき》を吐《つ》く状《さま》に吹散らして、雲切れがした様子は、そのまま晴上《あが》りそうに見えるが、淡く濡れた日脚《ひあし》の根が定まらず、ふわふわ気紛《きまぐ》れに暗くなるから……また直きに降って来そうにも思われる。

 

 すっかり雨支度《あまじたく》でいるのもあるし、雪駄《せった》でばたばたと通るのもある。傘《からかさ》を拡げて大きく肩にかけたのが、伊達《だて》に行届いた姿見よがしに、大薩摩《おおざつま》で押して行《ゆ》くと、すぼめて、軽く手に提げたのは、しょんぼり濡れたも好《い》いものを、と小唄で澄まして来る。皆足どりの、忙《せわ》しそうに見えないのが、水を打った花道で、何となく春らしい。

 

 電車のちょっと停《と》まったのは、日本橋通《とおり》三丁目の赤い柱で。
 今言ったその運転手台へ、鮮麗《あざやか》に出た女は、南部の表つき、薄形の駒下駄《こまげた》に、ちらりとかかった雪の足袋、紅羽二重《こうはぶたえ》の褄捌《つまさば》き、柳の腰に靡《なび》く、と一段軽く踏んで下りようとした。

 

 コオトは着ないで、手に、紺蛇目傘《こんじゃのめ》の細々と艶のあるを軽く持つ。
 ちょうど、そこに立って、電車を待合わせていたのが、舟崎《ふなざき》という私の知己《ちかづき》——それから聞いたのをここに記す。

 舟崎は名を一帆《かずほ》といって、その辺のある保険会社のちょっといい顔で勤めているのが、表向は社用につき一軒廻って帰る分。その実は昨夜《ゆうべ》の酒を持越しのため、四時びけの処を待兼ねて、ちと早めに出た処、いささか懐中に心得あり。

 

 一旦《いったん》家《うち》へ帰ってから出直してもよし、直ぐに出掛けても怪しゅうはあらず、またと……誰か誘おうかなどと、不了簡《ふりょうけん》を廻《めぐ》らしながら、いつも乗って帰る処は忘れないで、件《くだん》の三丁目に彳《たたず》みつつ、時々、一粒ぐらいぼつりと落ちるのを、洋傘《こうもり》の用意もないに、気にもしないで、来るものは拒まず……去るものは追わずの気構え。上野行、浅草行、五六台も遣過《やりす》ごして、硝子戸越《がらすどご》しに西洋小間《こま》ものを覗《のぞ》く人を透かしたり、横町へ曲るものを見送ったり、頻《しき》りに謀叛気《むほんぎ》を起していた。

 

 処へ……
 一目その艶《えん》なのを見ると、なぜか、気疾《きばや》に、ずかずかと飛着いて、下りる女とは反対の、車掌台の方から、……早や動出《うごきだ》す、鉄の棒をぐいと握って、ひらりと乗ると、澄まして入った。が、何のためにそうしたか、自分でもよくは分らぬ。

 

 そこにぼんやりと立った状《さま》を、女に見られまいと思った見栄か、それとも、その女を待合わしてでもいたように四辺《あたり》の人に見らるるのを憚《はばか》ったか。……しかし、実はどちらでもなかった、と渠《かれ》は云う。

 

 乗合いは随分立籠《たてこ》んだが、どこかに、空席は、と思う目が、まず何より前《さき》に映ったのは、まだ前側から下りないで、横顔も襟も、すっきりと硝子戸越に透通る、運転手台の婀娜姿《あだすがた》。

 

 

 誰も知った通り、この三丁目、中橋《なかばし》などは、通《とおり》の中でも相《あい》の宿《しゅく》で、電車の出入《ではい》りが余り混雑せぬ。

 

 停《と》まった時、二人三人は他《ほか》にも降りたのがあったろう。けれども、女に気を取られてそれにはちっとも気がつかぬ。
 乗ったのは、どの口からも一帆一人。
 入るともう、直ぐにぐいと出る。
 ト前の硝子戸《がらすど》を外から開けて、その女が、何と!
 姿見から影を抜出《ぬけだ》したような風情で、引返して、車内へ入って来たろうではないか。
 そして、ぱっちりした、霑《うるみ》のある、涼しい目を、心持俯目《ふしめ》ながら、大きく※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みひら》いて、こっちに立った一帆の顔を、向うから熟《じっ》と見た。
 見た、と思うと、今立った旧《もと》の席が、それなり空いていたらしい。そこへ入って、ごたごたした乗客の中へ島田が隠れた。

 

 その女は、丈長《たけなが》掛けて、銀の平打の後《うしろ》ざし、それ者《しゃ》も生粋《きっすい》と見える服装《みなり》には似ない、お邸好《やしきごの》みの、鬢水《びんみず》もたらたらと漆のように艶《つや》やかな高島田で、強《ひど》くそれが目に着いたので、くすんだお召縮緬《めしちりめん》も、なぜか紫の俤立《おもかげだ》つ。

 

 空《す》いた処が一ツあったが、女の坐ったのと同一側《おんなじがわ》で、一帆はちと慌《あわただ》しいまで、急いで腰を落したが。

 胸、肩を揃えて、ひしと詰込んだ一列の乗客《のりて》に隠れて、内証で前へ乗出しても、もう女の爪先《つまさき》も見えなかったが、一目見られた瞳《ひとみ》の力は、刻み込まれたか、と鮮麗《あざやか》に胸に描かれて、白木屋の店頭《みせさき》に、つつじが急流に燃ゆるような友染《ゆうぜん》の長襦袢《ながじゅばん》のかかったのも、その女が向うへ飛んで、逆《さかさ》にまた硝子越《がらすご》しに、扱帯《しごき》を解いた乱姿《みだれすがた》で、こちらを差覗《さしのぞ》いているかと疑う。

 

 やがて、心着くと標示《しるし》は萌黄《もえぎ》で、この電車は浅草行。
 一帆がその住居《すまい》へ志すには、上野へ乗って、須田町あたりで乗換えなければならなかったに、つい本町の角をあれなり曲って、浅草橋へ出ても、まだうかうか。
 もっとも、わざととはなしに、一帳場《ひとちょうば》ごとに気を注《つ》けたが、女の下りた様子はない。
 で、そこまで行《ゆ》くと、途中は厩橋《うまやばし》、蔵前《くらまえ》でも、駒形《こまがた》でも下りないで、きっと雷門まで、一緒に行《ゆ》くように信じられた。

 

 何だろう、髪のかかりが芸者でない。が、爪《つま》はずれが堅気《かたぎ》と見えぬ。——何だろう。

 とそんな事。……中に人の数を夾《はさ》んだばかり、つい同じ車に居るものを、一年《ひととせ》、半年、立続けに、こんがらかった苦労でもした中のように種々《いろいろ》な事を思う。また雲が濃く、大空に乱れ流れて、硝子窓《がらすまど》の薄暗くなって来たのさえ、確《しか》とは心着かぬ。


 が、蔵前を通る、あの名代《なだい》の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄《すさま》じく暗くなった。

 頸許《えりもと》がふと気になると、尾を曳《ひ》いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透《すか》して、雫《しずく》のその、ひやりと冷たく身に染むのを知っても、雨とは思わぬほど、実際上《うわ》の空でいたのであった。


 さあ、浅草へ行《ゆ》くと、雷門が、鳴出したほどなその騒動《さわぎ》。
 どさどさ打《ぶち》まけるように雪崩《なだ》れて総立ちに電車を出る、乗合《のりあい》のあわただしさより、仲見世《なかみせ》は、どっと音のするばかり、一面の薄墨へ、色を飛ばした男女《なんにょ》の姿。
 風立つ中を群《むらが》って、颯《さっ》と大幅に境内から、広小路へ散りかかる。
 きちがい日和《びより》の俄雨《にわかあめ》に、風より群集が狂うのである。
 その紛れに、女の姿は見えなくなった。


 電車の内はからりとして、水に沈んだ硝子函《がらすばこ》、車掌と運転手は雨にあたかも潜水夫の風情に見えて、束《つか》の間《ま》は塵《ちり》も留めず、——外の人の混雑は、鯱《しゃち》に追われたような中に。——
 一帆は誰よりも後《おく》れて下りた。もう一人も残らないから、女も出たには違いない。

 

 

 

 が、拍子抜けのした事は夥多《おびただ》しい。
 ストンと溝へ落ちたような心持ちで、電車を下りると、大粒ではないが、引包《ひッつつ》むように細かく降懸《ふりかか》る雨を、中折《なかおれ》で弾《はじ》く精もない。


 鼠の鍔《つば》をぐったりとしながら、我慢に、吾妻橋の方も、本願寺の方も見返らないで、ここを的《あて》に来たように、素直《まっすぐ》に広小路を切って、仁王門を真正面《まっしょうめん》。
 濡れても判明《はっきり》と白い、処々むらむらと斑《ふ》が立って、雨の色が、花簪《はなかんざし》、箱狭子《はこせこ》、輪珠数《わじゅず》などが落ちた形になって、人出の混雑を思わせる、仲見世の敷石にかかって、傍目《わきめ》も触《ふ》らないで、御堂《みどう》の方《かた》へ。

 そこらの豆屋で、豆をばちばちと焼く匂《におい》が、雨を蒸して、暖かく顔を包む。

 

 その時、広小路で、電車の口から颯《さっ》と打った網の末《すそ》が一度、混雑の波に消えて、やがて、向《むき》のかわった仲見世へ、手元を細くすらすらと手繰寄せられた体《てい》に、前刻《さっき》の女が、肩を落して、雪かと思う襟脚細く、紺蛇目傘《こんじゃのめ》を、姿の柳に引掛《ひっか》けて、艶《つや》やかにさしながら、駒下駄を軽く、褄《つま》をはらはらとちと急いで来た。
 と見ると、左側から猶予《ため》らわないで、真中《まんなか》へ衝《つ》と寄って、一帆に肩を並べたのである。


 なよやかな白い手を、半ば露顕《あらわ》に、飜然《ひらり》と友染の袖を搦《から》めて、紺蛇目傘をさしかけながら、
「貴下《あなた》、濡れますわ。」
 と言う。瞳が、動いて莞爾《にっこり》。留南奇《とめき》の薫《かおり》が陽炎《かげろう》のような糠雨《ぬかあめ》にしっとり籠《こも》って、傘《からかさ》が透通るか、と近増《ちかまさ》りの美しさ。
 一帆の濡れた額は快よい汗になって、
「いいえ、構わない、私は。」
 と言った、がこれは心から素気《そっけ》のない意味ではなかった。
「だって、召物が。」
「何、外套《がいとう》を着ています。」
 と別に何の知己《ちかづき》でもない女に、言葉を交わすのを、不思議とも思わないで、こうして二言三言、云う中《うち》にも、つい、さしかけられたままで五足六足《いつあしむあし》。花の枝を手に提げて、片袖重いような心持で、同じ傘《からかさ》の中を歩行《ある》いた。
「人が見ます。」
 どうして見るどころか、人脚の流るる中を、美しいしぶきを立てるばかり、仲店前を逆らって御堂の路《みち》へ上るのである。
 また、誰が見ないまでも、本堂からは、門をうろ抜けの見透《みとおし》一筋、お宮様でないのがまだしも、鏡があると、歴然《ありあり》ともう映ろう。
「御迷惑?」
 と察したように低声《こごえ》で言ったのが、なお色めいたが、ちっと蛇目傘《じゃのめ》を傾けた。
 目隠しなんど除《と》れたかと、はっきりした心持で、
「迷惑どころじゃ……しかし穏《おだやか》ではありません。一人ものが随分通ります。」
 とやっと苦笑した。
「では、別ッこに……」と云うなり、拗《す》ねた風にするりと離れた。


 と思うと、袖を斜めに、ちょっと隠れた状《さま》に、一帆の方へ蛇目傘ながら細《ほっそ》りした背《せな》を見せて、そこの絵草紙屋の店を覗《なが》めた。けばけばしく彩った種々《いろいろ》の千代紙が、染《にじ》むがごとく雨に縺《もつ》れて、中でも紅《べに》が来て、女の瞼《まぶた》をほんのりとさせたのである。
 今度は、一帆の方がその傍《そば》へ寄るようにして、
「どっちへいらっしゃる。」
「私?……」
 と傘《からかさ》の柄に、左手《ゆんで》を添《そ》えた。それが重いもののように、姿が撓《しな》った。
「どこへでも。」
 これを聞棄《ききず》てに、今は、ゆっくりと歩行《ある》き出したが、雨がふわふわと思いのまま軽い風に浮立つ中に、どうやら足許《あしもと》もふらふらとなる。

 門の下で、後《うしろ》を振返って見た時は、何店《どこ》へか寄ったか、傍《わき》へ外《そ》れたか。仲見世の人通りは雨の朧《おぼろ》に、ちらほらとより無かったのに、女の姿は見えなかった。
 それきり逢《あ》わぬ、とは心の裡《うち》に思わないながら、一帆は急に寂しくなった。


 妙に心も更《あらた》まって、しばらく何事も忘れて、御堂《みどう》の階段を……あの大提灯《おおぢょうちん》の下を小さく上って、厳《おごそ》かな廂《ひさし》を……欄干に添って、廻廊を左へ、角の擬宝珠《ぎぼしゅ》で留まって、何やら吻《ほっ》と一息ついて、零《しずく》するまでもないが、しっとりとする帽子を脱いで、額を手布《ハンケチ》で、ぐい、と拭《ぬぐ》った。
「素面《しらふ》だからな。」
 と歎息するように独言《ひとりごと》して、扱《しご》いて片頬《かたほ》を撫《な》でた手をそのまま、欄干に肱《ひじ》をついて、遍《あまね》く境内をずらりと視《なが》めた。

 

 早いもので、もう番傘の懐手《ふところで》、高足駄で悠々と歩行《ある》くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々《いろいろ》な処へ、これから奥は、御堂の背後《うしろ》、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯《ひきょう》な、相合傘《あいあいがさ》に後《おく》れは取らぬ、と肩の聳《そび》ゆるまで一人で気競《きお》うと、雨も霞《かす》んで、ヒヤヒヤと頬《ほお》に触る。一雫も酔覚《よいざめ》の水らしく、ぞくぞくと快く胸が時めく……
 が、見透《みとお》しのどこへも、女の姿は近づかぬ。
「馬鹿な、それっきりか。いや、そうだろう。」
 と打棄《うっちゃ》り放す。


 大提灯にはたはたと翼《つばさ》の音して、雲は暗いが、紫の棟の蔭、天女も籠《こも》る廂《ひさし》から、鳩が二三羽、衝《つ》と出て飜々《ひらひら》と、早や晴れかかる銀杏《いちょう》の梢《こずえ》を矢大臣門の屋根へ飛んだ。


 胸を反らして空模様を仰ぐ、豆売りのお婆《ばあ》の前を、内端《うちば》な足取り、裳《もすそ》を細く、蛇目傘《じゃのめ》をやや前下りに、すらすらと撫肩《なでがた》の細いは……確《たしか》に。

 

 スーと傘《からかさ》をすぼめて、手洗鉢《みたらし》へ寄った時は、衣服《きもの》の色が、美しく湛《たた》えた水に映るか、とこの欄干から遥《はる》かな心に見て取られた。……折からその道筋には、件《くだん》の女ただ一人で。
 水色の手巾《ハンケチ》を、はらりと媚《なまめ》かしく口に啣《くわ》えた時、肩越に、振仰いで、ちょいと廻廊の方《かた》を見上げた。
 のめのめとそこに待っていたのが、了簡《りょうけん》の余り透く気がして、見られた拍子に、ふらりと動いて、背後《うしろ》向きに横へ廻る。

 

 パッパッと田舎の親仁《おやじ》が、掌《てのひら》へ吸殻を転がして、煙管《きせる》にズーズーと脂《やに》の音。くく、とどこかで鳩の声。茜《あかね》の姉《あねえ》も三四人、鬱金《うこん》の婆様《ばさま》に、菜畠《なばたけ》の阿媽《かかあ》も交《まじ》って、どれも口を開けていた。

 

 が、あ、と押魂消《おったまげ》て、ばらりと退《の》くと、そこの横手の開戸口《ひらきどぐち》から、艶麗《あでやか》なのが、すうと出た。
 本堂へ詣《まい》ったのが、一廻りして、一帆の前に顕《あら》われたのである。

 

 すぼめた蛇目傘《じゃのめ》に手を隠して、
「お待ちなすって?」
 また、ほんのりと花の薫《かおり》。
「何、ちっとも。……ゆっくりお参詣《まいり》をなされば可《い》い。」
「貴下《あなた》こそ、前《さき》へいらしってお待ち下されば可《よ》うござんすのに、出張《でっぱ》りにいらしって、沫《しぶき》が冷《つめた》いではありませんか。」
 さっさと先へ行《ゆ》けではない。待ってくれれば、と云う、その待つのはどこか、約束も何もしないが、もうこうなっては、度胸が据《すわ》って、
「だって雨を潜《くぐ》って、一人でびしょびしょ歩行《ある》けますか。」
「でも、その方がお好《すき》な癖に……」
 と云って、肩でわざとらしくない嬌態《しな》をしながら、片手でちょいと帯を圧《おさ》えた。ぱちん留《どめ》が少し摺《ず》って、……薄いが膨《ふっく》りとある胸を、緋鹿子《ひがのこ》の下〆《したじめ》が、八ツ口から溢《こぼ》れたように打合わせの繻子《しゅす》を覗《のぞ》く。


 その間に、きりりと挟んだ、煙管筒《きせるづつ》? ではない。象牙骨《ぞうげぼね》の女扇を挿している。
 今圧えた手は、帯が弛《ゆる》んだのではなく、その扇子《おうぎ》を、一息探く挿込んだらしかった。

 

 

 

 紫の矢絣《やがすり》に箱迫《はこせこ》の銀のぴらぴらというなら知らず、闇桜《やみざくら》とか聞く、暗いなかにフト忘れたように薄紅《うすくれない》のちらちらする凄《すご》い好みに、その高島田も似なければ、薄い駒下駄に紺蛇目傘《こんじゃのめ》も肖《そぐ》わない。が、それは天気模様で、まあ分る。けれども、今時分、扇子《おうぎ》は余りお儀式過ぎる。……踊の稽古《けいこ》の帰途《かえり》なら、相応したのがあろうものを、初手《しょて》から素性のおかしいのが、これで愈々《いよいよ》不思議になった。


 が、それもその筈《はず》、あとで身上《みじょう》を聞くと、芸人だと言う。芸人も芸人、娘手品《むすめてじな》、と云うのであった。
 思い懸けず、余《あんま》り変ってはいたけれども、当人の女の名告《なの》るものを、怪しいの、疑わしいの、嘘言《うそ》だ、と云った処で仕方がない。まさか、とは考えるが、さて人の稼業である。此方《こなた》から推着《おしつ》けに、あれそれとも極《き》められないから、とにかく、不承々々に、そうか、と一帆の頷《うなず》いたのは、しかし観世音の廻廊の欄干に、立並んだ時ではない。御堂《みどう》の裏、田圃《たんぼ》の大金《だいきん》の、とある数寄屋造《すきやづく》り[#「数寄屋造り」は底本では「敷寄屋造り」]の四畳半に、膳《ぜん》を並べて差向った折からで。……


 もっとも事のそこへ運んだまでに、いささか気になる道行《みちゆき》の途中がある。
 一帆は既に、御堂の上で、その女に、大形の紙幣《さつ》を一枚、紙入から抜取られていたのであった。
 やっぱり練磨の手術《てわざ》であろう。
 その時、扇子を手で圧《おさ》えて、貴下《あなた》は一人で歩行《ある》く方が、
「……お好《すき》な癖に……」
 とそう云うから、一帆は肩を揺《ゆす》って、
「こうなっちやもう構やしません。是非相合傘にして頂く。」と威《おど》すように云って笑った。
「まあ、駄々《だだ》ッ児《こ》のようだわね。」
 と莞爾《にっこり》して、
「貴方《あなた》、」と少し改まる。
「え。」
「あの、少々お持合わせがござんすか。」
 と澄まして言う。一帆はいささか覚悟はしていた。
「ああ。」
 とわざと鷹揚《おうよう》に、
「幾干《いくら》ばかり。」
「十枚。」
 と胸を素直《まっすぐ》にした、が、またその姿も佳《よ》かった。
「ちょいと、買物がしたいんですから。」
「お持ちなさい。」
 この時、一帆は背後《うしろ》に立った田舎ものの方を振向いた。皆《みんな》、きょろりきょろりと視《なが》めた。


 女は、帯にも突込《つっこ》まず、一枚掌《たなそこ》に入れたまま、黙って、一帆に擦違《すれちが》って、角の擬宝珠《ぎぼしゅ》を廻って、本堂正面の階段の方へ見えなくなる。


 大方、仲見世へ引返したのであろう、買物をするといえば。
 さて何をするか、手間の取れる事一通りでない。
 煙草《たばこ》ももう吸い飽きて、拱《こまぬ》いてもだらしなく、ぐったりと解ける腕組みを仕直し仕直し、がっくりと仰向《あおむ》いて、唇をペろぺろと舌で嘗《な》める親仁《おやじ》も、蹲《しゃが》んだり立ったりして、色気のない大欠伸《おおあくび》を、ああとする茜《あかね》の新姐《しんぞ》も、まんざら雨宿りばかりとは見えなかった。が、綺麗《きれい》な姉様《あねさま》を待飽倦《まちあぐ》んだそうで、どやどやと横手の壇を下《お》り懸けて、
「お待遠《まちどお》だんべいや。」
 と、親仁がもっともらしい顔色《かおつき》して、ニヤリともしないで吐《ほざ》くと、女どもは哄《どっ》と笑って、線香の煙の黒い、吹上げの沫《しぶき》の白い、誰彼《たそが》れのような中へ、びしょびしょと入って行《ゆ》く。

 

 吃驚《びっくり》して、這奴等《しやつら》、田舎ものの風をする掏賊《すり》か、ポン引《ひき》か、と思った。軽くなった懐中《ふところ》につけても、当節は油断がならぬ。

 

 その時分まで、同じ処にぼんやりと立って待ったのである。

 

 

 

 早く下りよ、と段はそこに階《きざはし》を明けて斜めに待つ。自分に恥じて、もうその上は待っていられないまでになった。
 端へ出るのさえ、後を慕って、紙幣《さつ》に引摺《ひきず》られるような負惜《まけおし》みの外聞があるので、角の処へも出ないでいた。なぜか、がっかりして、気が抜けて、その横手から下りて、路《みち》を廻るのも億劫《おっくう》でならぬので、はじめて、ふらふらと前へ出て、元の本堂前の廻廊を廻って、欄干について、前刻《さっき》来がけとは勢《いきおい》が、からりとかわって、中折《なかおれ》の鍔《つば》も深く、面《おもて》を伏せて、そこを伝う風も、我ながら辿々《たどたど》しかった。


 トあの大提灯を、釣鐘が目前《めのまえ》へぶら下ったように、ぎょっとして、はっと正面へ魅《つま》まれた顔を上げると、右の横手の、広前《ひろまえ》の、片隅に綺麗に取って、時ならぬ錦木《にしきぎ》が一本《ひともと》、そこへ植わった風情に、四辺《あたり》に人もなく一人立って、傘《からかさ》を半開き、真白《まっしろ》な横顔を見せて、生際《はえぎわ》を濃く、美しく目迎えて莞爾《にっこり》した。
「沢山《たんと》、待たせてさ。」と馴々《なれなれ》しく云うのが、遅くなった意味には取れず、逆《さかさま》に怨《うら》んで聞える。
 言葉戦い合《かな》うまじ、と大手を拡げてむずと寄って、
「どこにしましょう。」
「どちらへでも、貴下《あなた》のお宜《よろ》しい処が可《よ》うござんす。」
「じゃ、行く処へいらっしゃい。」
「どうぞ。」
 ともう、相合傘の支度らしい、片袖を胸に当てる、柄よりも姿が細《ほっそ》りする。

 丈がすらりと高島田で、並ぶと蛇目傘《じゃのめ》の下に対《つい》。
 で、大金《だいきん》へ入った時は、舟崎は大胆に、自分が傘《からかさ》を持っていた。
 けれども、後で気が着くと、真打《しんうち》の女太夫に、恭《うやうや》しくもさしかけた長柄の形で、舟崎の図は宜しくない。


 通されたのが小座敷《こざしき》で、前刻《さっき》言ったその四畳半。廊下を横へ通口《かよいぐち》[#ルビの「かよいぐち」は底本では「かよひぐち」]がちょっと隠れて、気の着かぬ処に一室《ひとま》ある……

 

 数寄《すき》に出来て、天井は低かった。畳の青さ。床柱にも名があろう……壁に掛けた籠《かご》に豌豆《えんどう》のふっくりと咲いた真白《まっしろ》な花、蔓《つる》を短かく投込みに活《い》けたのが、窓明りに明《あかる》く灯を点《とも》したように見えて、桃の花より一層ほんのりと部屋も暖い。

 

 用を聞いて、円髷《まげ》に結《い》った女中が、しとやかに扉《ひらき》を閉めて去《い》ったあとで、舟崎は途中も汗ばんで来たのが、またこう籠《こも》ったので、火鉢を前に控えながら、羽織を脱いだ。

 

 それを取って、すらりと扱《しご》いて、綺麗に畳む。
「これは憚《はばか》り、いいえ、それには。」
「まあ、好きにおさせなさいまし。」
 と壁の隅へ、自分の傍《わき》へ、小膝《こひざ》を浮かして、さらりと遣《や》って、片手で手巾《ハンケチ》を捌《さば》きながら、
「ほんとうにちと暖か過ぎますわね。」
「私は、逆上《のぼせ》るからなお堪《たま》りません。」
「陽気のせいですね。」
「いや、お前さんのためさ。」
「そんな事をおっしゃると、もっと傍《そば》へ。」
 と火鉢をぐい、と圧《お》して来て、
「そのかわり働いて、ちっと開けて差上げましょう。」
 と弱々と斜《ななめ》にひねった、着流しの帯のお太鼓の結目《むすびめ》より低い処に、ちょうど、背後《うしろ》の壁を仕切って、細い潜《くぐ》り窓の障子がある。
 カタリ、と引くと、直ぐに囲いの庭で、敷松葉を払ったあとらしい、蕗《ふき》の葉が芽《めぐ》んだように、飛石が五六枚。

 

 柳の枝折戸《しおりど》、四ツ目垣。
 トその垣根へ乗越して、今フト差覗《さしのぞ》いた女の鼻筋の通った横顔を斜違《はすっか》いに、月影に映す梅の楚《ずわえ》のごとく、大《おおい》なる船の舳《へさき》がぬっと見える。
「まあ、可《い》いこと!」
 と嬉しそうに、なぜか仇気《あどけ》ない笑顔になった。

 

 

 

「池があるんだわね。」
 と手を支《つ》いて、壁に着いたなりで細《ほっそ》りした頤《おとがい》を横にするまで下から覗《のぞ》いた、が、そこからは窮屈で水は見えず、忽然《こつぜん》として舳《へさき》ばかり顕《あら》われたのが、いっそ風情であった。


 カラカラと庭下駄が響く、とここよりは一段高い、上の石畳みの土間を、約束の出であろう、裾模様《すそもよう》の後姿で、すらりとした芸者が通った。

 

 向うの座敷に、わやわやと人声あり。
 枝折戸《しおりど》の外を、柳の下を、がさがさと箒《ほうき》を当てる、印半纏《しるしばんてん》の円い背《せなか》が、蹲《うずく》まって、はじめから見えていた。

 

 それには差構いなく覗いた女が、芸者の姿に、密《そっ》と、直ぐに障子を閉めた。
 向直った顔が、斜めに白い、その豌豆《えんどう》の花に面した時、眉を開いて、熟《じっ》と視《み》た。が、瞳を返して、右手《めて》に高い肱掛窓《ひじかけまど》の、障子の閉ったままなのを屹《きっ》と見遣《みや》った。

 

 咄嗟《とっさ》の間の艶麗《あでやか》な顔の働きは、たとえば口紅を衝《つ》と白粉《おしろい》に流して稲妻を描いたごとく、媚《なまめ》かしく且つ鋭いもので、敵あり迫らば翡翠《ひすい》に化して、窓から飛んで抜けそうに見えたのである。
 一帆は思わず坐り直した。
 処へ、女中が膳《ぜん》を運んだ。
「お一ツ。」
「天気は?」 
「可《いい》塩梅《あんばい》に霽《あが》りました。……ちと、お熱過ぎはいたしませんか。」
「いいえ、結構。」
「もし、貴女《あなた》。」
 女が、もの馴《な》れた状《さま》で猪口《ちょく》を受けたのは驚かなかったが、一ツ受けると、
「何うぞ、置いて去《い》らしって可《よ》うござんす。」と女中を起《た》たせたのは意外である。
 一帆はしばらくして陶然《とうぜん》とした。
「更《あらた》めて、一杯《ひとつ》、お知己《ちかづき》に差上げましょう。」
「極《きまり》が悪うござんすね。」
「何の。そうしたお前さんか。」
 と膝をぐったり、と頭《こうべ》を振って、
「失礼ですが、お住所《ところ》は?」
「は、提灯《ちょうちん》よ。」
 と目許《めもと》の微笑《ほほえみ》。丁《ちょう》と、手にした猪口を落すように置くと、手巾《ハンケチ》ではっと口を押えて、自分でも可笑《おかし》かったか、くすくす笑う。
「町名、町名、結構。」
 一帆は町名と聞違えた。
「いいえ、提灯なの。」
「へい、提灯町。」
 と、けろりと馬鹿気た目とろでいる。
 また笑って、
「そうじゃありません。私の家《うち》は提灯なんです。」
「どこの? 提灯?」
「観音様の階段の上の、あの、大《おおき》な提灯の中が私の家《うち》です。」
「ええ。」と云ったが、大概察した。この上尋ねるのは無益である。
「お名は。」
「私? 名ですか。娘……」
「娘子《むすめこ》さん。——成程違いない、で、お年紀《とし》は?」
「年は、婆さん。」
「年は婆さん、お名は娘、住所《ところ》は提灯の中でおいでなさる。……はてな、いや、分りました……が、お商売は。」
 と訊《き》いた。
 後に舟崎が語って言うよう——
 いかに、大の男が手玉に取られたのが口惜《くやし》いといって、親、兄、姉をこそ問わずもあれ、妙齢《としごろ》の娘に向って、お商売? はちと思切った。

 しかし、さもしいようではあるが、それには廻廊の紙幣《さつ》がある。

 

 その時、ちと更《あらた》まるようにして答えたのが、
「私は、手品をいたします。」
 近頃はただ活動写真で、小屋でも寄席《よせ》でも一向入《い》りのない処から、座敷を勤めさして頂く。
「ちょいと嬰児《あか》さんにおなり遊ばせ。」
 思懸《おもいが》けない、その御礼までに、一つ手前芸を御覧に入れる。
「お笑い遊ばしちゃ、厭《いや》ですよ。」と云う。
「これは拝見!」と大袈裟《おおげさ》に開き直って、その実は嘘だ、と思った。
 すると、軽く膝を支《つ》いて、蒲団《ふとん》をずらして、すらりと向うへ、……扉《ひらき》の前。——此方《こなた》に劣らず杯《さかずき》は重ねたのに、衣《きぬ》の薫《かおり》も冷《ひや》りとした。


 扇子を抜いて、畳に支《つ》いて、頭《つむり》を下げたが、がっくり、と低頭《うなだ》れたように悄《しお》れて見えた。
「世渡りのためとは申しながら……前《さき》へ御祝儀を頂いたり、」
 と口籠《くちごも》って、
「お恥かしゅう存じます。」と何と思ったか、ほろりとした。その美しさは身に染みて、いまだ夢にも忘れぬ。
 いや、そこどころか。
 あの、籠《かご》の白い花を忘れまい。

 

 すっと抜くと、掌《てのひら》に捧げて出て、そのまま、※[#「木+靈」、第3水準1-86-29]子窓《れんじまど》の障子を開けた。開ける、と中庭一面の池で、また思懸けず、船が一舳《そう》、隅田に浮いた鯨のごとく、池の中を切劃《しき》って浮く。

 

 空は晴れて、霞《かすみ》が渡って、黄金のような半輪の月が、薄《うっす》りと、淡い紫の羅《うすもの》の樹立《こだち》の影を、星を鏤《ちりば》めた大松明《おおたいまつ》のごとく、電燈とともに水に投げて、風の余波《なごり》は敷妙《しきたえ》の銀の波。
 ト瞻《みつ》めながら、
「は、」と声が懸《かか》る、袖を絞って、袂《たもと》を肩へ、脇明《わきあけ》白き花一片《ひとひら》、手を辷《すべ》ったか、と思うと、非《あら》ず、緑の蔓《つる》に葉を開いて、はらりと船へ投げたのである。

 

 ただ一攫《ひとつま》みなりけるが、船の中に落つると斉《ひと》しく、礫《つぶて》打った水の輪のように舞って、花は、鶴の羽《は》のごとく舳《へさき》にまで咲きこぼれる。

 

 その時きりりと、銀の無地の扇子を開いて、かざした袖の手のしないに、ひらひらと池を招く、と澄透《すみとお》る水に映って、ちらちらと揺《ゆら》めいたが、波を浮いたか、霞を落ちたか、その大《おおき》さ、やがて扇ばかりな真白《まっしろ》な一羽の胡蝶《こちょう》、ふわふわと船の上に顕《あら》われて、つかず、離れず、豌豆《えんどう》の花に舞う。
 やがて蝶が番《つがい》になった。
 内は寂然《ひっそり》とした。
 芸者の姿は枝折戸《しおりど》を伸上った。池を取廻《とりま》わした廊下には、欄干越《てすりごし》に、燈籠《とうろう》の数ほど、ずらりと並ぶ、女中の半身。

 

 蝶は三ツになった。影を沈めて六ツの花、巴《ともえ》に乱れ、卍《まんじ》と飛交う。
 時にそよがした扇子を留めて、池を背後《うしろ》に肱掛窓《ひじかけまど》に、疲れたように腰を懸ける、と同じ処に、肱《ひじ》をついて、呆気《あっけ》に取られた一帆と、フト顔を合せて、恥じたる色して、扇子をそのまま、横に背《そむ》いて、胸越しに半面を蔽《おお》うて差俯向《さしうつむ》く時、すらりと投げた裳《もすそ》を引いて、足袋の爪先を柔かに、こぼれた褄《つま》を寄せたのである。

 フト現《うつつ》から覚めた時、女の姿は早やなかった。
 女中に聞くと、
「お車で、たった今……」

明治四十四(一九一一)年二月

底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年10月24日第1刷発行
   2004(平成16)年3月20日第2刷発行
入力:土屋隆
校正:門田裕志
2005年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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浅草文庫 - 泉鏡花 - 「妖術」

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